給料が上がらない。
それなのに、食費も光熱費もじわじわと上がっていく。
働き方を変えても、転職しても、暮らしが軽くならない。
そんな「報われにくさ」を感じている人が、いまの日本にはたくさんいます。
けれど、この停滞は“誰かの怠け”や“一時的な景気の問題”ではありません。
制度、企業、社会、そして私たち一人ひとりの意識
そのすべてが少しずつ噛み合わなくなって、
お金も努力も循環しない構造ができあがっているんです。
このシリーズでは、日本という国を“ビジネスモデル”として見立て、
どこで循環が止まっているのかを少しずつほどいてきました。
「人口・雇用編」では、働く人が減る中で制度が古いまま残っている現実を、
「経済・生産性編」では、仕組みが変わらず効率だけが求められる現状を描きました。
そして今回のテーマは、「賃金と格差」。
人が減り、企業が変わらず、社会が静かに固まっていく中で、
なぜ「分配」が止まってしまったのかを掘り下げます。
記事の前半では、政治・経済・文化などの外側から、
そして企業の仕組みや社会の空気といった内側から、
“上がらない構造”を整理します。
中盤では、原因のつながりを分解し、
どこでお金と意識の流れが滞っているのかを見ていきます。
そして後半では、制度や企業をどう動かせばいいのか、
私たちはどこから変えていけるのかを考えます。
目指すのは「誰を責めるか」ではなく、
どうすればもう一度、分配の流れを取り戻せるか。
その答えを、あなたの“半径5メートル”から描いていきます。
【1】なぜ日本では「賃金が上がらない構造」が続くのか

給料が上がらない。
それは企業努力や景気循環だけの問題ではありません。
この国の“外側の環境”そのものが、じわじわと私たちの賃金を押さえつけている。
政治、経済、社会、技術、環境、法律。
それぞれが少しずつ変化し、バラバラの方向を向いたまま、
一つの歯車としてかみ合わなくなっている。
その“ずれ”が、賃金を上げにくくしている構造を生んでいます。
この記事の最初の章では、
「なぜ日本全体が“上げにくい社会”になったのか」を整理します。
私たちの暮らしを囲む環境を見渡すことで、
この問題が企業や労働市場の枠を超えた“社会設計そのもの”に関わる話であることが見えてきます。
1-1. 外部から見た“上げにくい社会”の仕組み
日本の賃金が上がらない背景には、企業や個人の努力だけではどうにもならない外側の力があります。
政治や経済、技術や人口といった環境の変化が、少しずつ賃金の流れをせき止めている。
ここでは、社会全体を6つの視点で整理してみます。
もともとは企業の環境分析で使われる「PESTLE(ペストル)分析」という方法で、
政治・経済・社会・技術・法律・環境の6つから外部要因を読み解くものです。
今回はこれを“日本という国のビジネスモデル”に当てはめ、
どんな外的要因が「賃金を上げにくくしているのか」を見える化してみましょう。
日本社会を取り巻く6つの外的要因
| 要因 | 主な変化・影響 |
|---|---|
| 政治 | 社会保障費の増大と財政硬直。若年層への再分配が後回し。 |
| 経済 | 円安と物価上昇で実質賃金が低下。中小企業は価格転嫁できず圧迫。 |
| 社会 | 高齢化・人口減少により“守りの政策”が優先。新しい挑戦が生まれにくい。 |
| 技術 | 自動化・AI化が進む一方で、人の仕事の価値が曖昧に。 |
| 法律 | 雇用・税制が昭和期の設計を引きずり、労働移動を阻害。 |
| 環境 | 脱炭素や規制対応が中小企業のコストを増やし、賃上げの余地を圧迫。 |
外から見た日本の姿は、一見“安定している国”です。
けれど、安定という言葉の裏には「変わらないことへの安心」と「変われないことへの無力感」が共存しています。
政策は短期支援に偏り、企業はリスクを取れず、
社会は「守ることが正しい」という空気を強くしていく。
その結果、外の要因が内側の制度と結びついて、
“上げようとしても上げられない社会”が生まれてしまったのです。
変化に追いつけないルール、分配しきれない仕組み、挑戦をためらう心理。
この3つが、ゆっくりと日本の賃金構造を固定化させている。
次に、この外的要因を受け止める「企業の内部構造」に焦点を移し、
なぜ“上げない仕組み”が企業の中に根づいてしまったのかを見ていきます。
1-2. 企業内部に埋め込まれた“上げない仕組み”
外からの圧力に加え、企業の内部にも“賃金を上げにくくしている構造”があります。
どんなに景気が回復しても、利益が出ても、なぜか社員の給料には反映されない。
それは、経営者の意志や努力というより、組織そのものの設計がそうなっているからです。
ここでは、企業の「内側の構造」を見直すために、組織を7つの要素で捉えるフレームを使います。
経営学でよく用いられる「7S」という考え方を少しやわらかく言い換えると、
組織は「戦略」「仕組み」「人材」「文化」「スキル」「価値観」「リーダーシップ」の7つの要素で動いているというもの。
これらのどこかが古くなったり、他と噛み合わなくなったりすると、変化にブレーキがかかるのです。
企業の内側で止まっている“7つの要素”
| 要素 | 現状と影響 |
|---|---|
| 戦略 | 成長より「安定維持」を優先。人件費よりコスト削減が主軸に。 |
| 仕組み | 年功序列・終身雇用が残り、実力より年次で評価される。 |
| 人材 | 正社員と非正規の分断が続き、賃上げが限定的に。 |
| 文化 | 「波風を立てない」が暗黙のルール。現状維持が安心とされる。 |
| スキル | 再教育・リスキリング投資が遅れ、人の成長が止まりやすい。 |
| 価値観 | 利益=内部留保という考え方が定着し、分配の意識が薄い。 |
| リーダーシップ | 現場任せ・前例主義が根強く、意思決定が遅い。 |
これらの構造は、かつて「右肩上がりの時代」には理にかなっていました。
企業が大きくなり、終身雇用で人を守ることが“社会的責任”だった時代。
けれど、人口が減り、産業が細分化した今では、同じ仕組みが成長の足かせになっている。
たとえば、年功制は経験を尊重する仕組みですが、
新しいスキルを持つ人の評価を遅らせる要因にもなっています。
非正規と正社員の分断は、雇用を守る一方で「分配の壁」を作ってしまう。
そして企業文化が「波風を立てないこと」を良しとすると、
給料を上げることすら“余計なリスク”に見えてくる。
つまり、企業の内部には「上げない方が安全」という意思決定の構造が根づいている。
それが、外の変化を受け止めきれず、
結果として社会全体の賃金を押し下げる力になっているのです。
次に、そうした企業構造をさらに外側から見たとき、
競争そのものがどう“分配の流れ”を止めているのかを考えます。
1-3. 競争が強すぎて“上げられない”社会になった
日本の企業は、長い間「競争の強さ」で成長してきました。
品質を磨き、納期を守り、価格を抑える。
そうして積み上げられた努力が、戦後の高度成長を支えたのです。
けれど今、その“競争の仕組み”そのものが、賃金を上げにくくしている。
値上げをすれば顧客が離れ、コストを転嫁すれば取引を失う。
誰もが“抜け出せない均衡”の中に閉じ込められています。
この構造を整理するために、経営の現場で使われる「5Forces分析」という考え方を使ってみましょう。
企業を取り巻く力関係――競合、顧客、取引先、新規参入、代替品。
この5つの力がどのように働くかで、企業がどれだけ利益を生み出せるか、つまり人に還元できる余地が変わります。
日本企業を取り巻く5つの“圧力”
| 力の方向 | 現状と影響 |
|---|---|
| 業界内の競争 | 同質化が進み、価格競争が常態化。利益率が薄く、賃上げ余地がない。 |
| 買い手の力(消費者・発注企業) | 「安くて当然」「値上げ=悪」という価値観が根強い。価格転嫁が難しい。 |
| 売り手の力(下請け・供給業者) | 大企業への依存が強く、原価上昇を吸収。末端ほど利益が圧縮される。 |
| 新規参入の脅威 | 技術の進歩で参入障壁が低下。新規プレイヤーが価格競争を誘発。 |
| 代替品・海外競争 | 輸入・AI・自動化などで“代わり”が増え、国内の付加価値が下がる。 |
この構図の中で、企業は常に「安く・速く・多く」を求められ続けます。
けれど、それはもう人件費を削るしか対応できない状況を生んでしまった。
買い手は値上げを拒み、売り手はコストを飲み込む。
業界の中心で価格競争が起これば、どの企業もリスクを避けて横並びになる。
その結果、競争は「成長を促す力」ではなく、
“均衡を保つための鎖”として働いているのです。
利益を守ることが、いつしか目的になった。
挑戦よりも維持、投資よりも保留。
そんな空気が、企業の意思決定を静かに縛っている。
つまり日本では、競争が激しいほど“報酬が減る”という逆説が起きている。
競争の強さが、人の働きの価値を奪っているのです。
次の章では、その競争を支えている文化と心理に焦点を当て、
なぜ私たちは「上げたくない社会」を受け入れてしまったのかを探ります。
1-4. 文化と心理が支える“上げたくない社会”
制度や企業の仕組みだけでは、分配の滞りは説明しきれません。
もっと静かな場所──私たち一人ひとりの中に、「上げることへのためらい」が根を張っています。
それは、経済ではなく文化や心理の問題です。
「我慢は美徳」「波風を立てない方がいい」という感覚が、社会全体のブレーキになっている。
人々の行動や価値観を分析する手法のひとつに、「顧客特性分析」という考え方があります。
これは本来、マーケティングの分野で「どんな価値を求め、何を避ける人が多いか」を読み解くもの。
けれど、この視点は社会を理解する上でも役に立ちます。
つまり、「日本人という“顧客”がどんな価値観を選び続けてきたのか」を見ていくのです。
“上げられない”ではなく、“上げたくない”と感じる社会の特徴
| 心理・文化の要素 | 現れ方・社会への影響 |
|---|---|
| 同調圧力 | 価格や給与を上げると「出る杭」と見られ、孤立を恐れて控える。 |
| 謙遜の文化 | 成果を誇るより、控えめでいることを好む。自己主張を避ける傾向。 |
| 感情の抑制 | 対立を避け、意見を飲み込む。交渉や要求がタブー視される。 |
| 安定志向 | 現状維持を優先し、新しい仕組みや変化を避ける。 |
| 罪悪感構造 | 「自分だけ得する」ことへの後ろめたさが、報酬要求を抑える。 |
こうした心理の構造は、かつての「全員で支え合う社会」を支えてきました。
しかし今では、それが循環を止める壁になっています。
たとえば、給料が上がらなくても「仕方ない」と思う。
価格を上げた店より「据え置いた店」を好む。
声を上げる人より「我慢している人」に共感する。
その小さな選択の積み重ねが、「上げない社会」を日常の中で再生産しているのです。
顧客特性の分析で見えるのは、こうした“無意識の選択”です。
多くの人が変化よりも安心を選ぶ。
その安心が、社会の静かな停滞を生み出している。
とはいえ、文化は変えられない宿命ではありません。
SNSで発信する若い世代、地域で助け合うコミュニティなど、
“上げる”ことをポジティブに共有し始めている人たちも増えています。
遠慮より共感、沈黙より対話。
その空気の変化が、少しずつ社会を動かし始めている。
“上げたくない”社会を変える最初の一歩は、
自分が上げるだけでなく、上げる人を応援できる社会を選ぶこと。
その視点の転換が、これからの分配の形を変えていくかもしれません。
1-5. 成功していた時代の構造が、いま“足かせ”になっている
日本はかつて、世界のどの国よりも早く成長した国でした。
その成功を支えていたのは、「人口が増え続けることを前提とした仕組み」です。
働く人が増えれば、企業も国も豊かになる。
そんな循環が自然に成立していた時代が、確かにありました。
その時代の日本には、いくつかの「成功の鍵(CSF:Critical Success Factor)」がありました。
終身雇用、年功序列、家族型の生活モデル。
どれも人口が右肩上がりで増える社会に最適化された制度でした。
人口増加期の日本を支えた“成功の構造”
| 要因 | 成功していた理由 | 現在の機能不全 |
|---|---|---|
| 終身雇用 | 働き手が増え続け、人件費を長期で回収できた | 人口減少で採算が崩れ、柔軟な雇用設計が必要に |
| 年功序列 | 経済拡大に伴い給与を自然に上げられた | 成長が止まり、昇給構造が維持不能に |
| 家族モデル (専業主婦・単収入世帯) | 男性中心の就業・女性の支援構造で家庭が安定 | 共働き化・非正規化でモデルが崩壊 |
| 企業共同体意識 | 会社が家族のように守る文化で忠誠心が高かった | 会社が守れなくなり、個人の孤立を生む |
| 社会保障の拡大 | 若年層が多く、支える側が十分にいた | 高齢化で支える構造が逆転し、財源が不足 |
これらはすべて、“増える前提”で設計された制度です。
しかし人口が減り始めた瞬間から、その前提が静かに崩れ始めました。
かつては「守る仕組み」だったものが、今は「変われない理由」になっている。
たとえば、終身雇用を守ろうとすれば、新しい雇用を生み出す余地が減る。
年功序列を維持すれば、若い世代の報酬が上がらない。
社会保障を維持しようとすれば、現役世代の負担が重くなる。
どれも“善意の制度”が、構造の硬直を生んでいるのです。
つまり、いま私たちは「成功の要因が失敗の要因に変わった社会」に生きています。
これは誰かのミスではなく、構造が時代に追いつかなくなった自然現象。
だからこそ必要なのは、“新しい成功の構造”を描き直すことです。
1-6. 日本の“人的資源モデル”が抱える構造疲労とは
ここまで見てきた分析を重ねると、
日本の社会は「誰かのせい」ではなく、仕組みそのものが古びて動かなくなっていることがわかります。
それは、ひとつひとつの制度や企業が悪いのではなく、
長く続いた“人を守る設計”が、今の時代には動きを止める設計に変わってしまったからです。
- 制度は「守ること」を目的化し、更新できなくなっている。
- 企業は「蓄える構造」に偏り、利益が社会に戻らない。
- 社会は「安定のための沈黙」を選び、対話の力を失っている。
- 個人は「失敗できない環境」に縛られ、挑戦を諦めがちになっている。
- 全体として、「上げる」ことへの抵抗感が染みつき、流れが止まっている。
どこも壊れてはいない。
それでも、全体として“循環”が失われている。
これがいま、日本の賃金が上がらない根底にある「構造疲労」です。
次の章では、この“止まった流れ”を分解し、
どの層で分配が詰まり、どこから動かせるのかを見ていきます。
【2】どこで止まっているのか──日本の分配が動かなくなった理由

前の章で見えてきたのは、
日本の賃金が上がらない理由は「努力不足」ではないということです。
止まっているのは、人でも企業でもなく、流れそのものです。
分配の流れを止めている要因は、大きく3つあります。
- 変えようとしても変わらない仕組み(制度の硬直)
- 上げたくても上げられない企業(構造の分断)
- 誰も声を上げない社会(心理的欠如)
それぞれ別の問題に見えますが、実際には同じ根の上にあります。
制度が動かないから企業が止まり、企業が止まるから社会も黙る。
そんな循環が、静かに積み上がってきました。
2-1. 変えようとしても、変わらない仕組み
最初の滞りは、制度の硬さです。
雇用、税金、社会保障──どれも設計の前提が古いままです。
終身雇用や年功序列を想定して作られた雇用制度は、
転職や副業といった柔軟な働き方を想定していません。
税制は専業主婦と会社員の世帯モデルを前提に、
社会保障は高齢層を中心に厚く守る構造のまま残っています。
結果として、制度は「守るための仕組み」から「動けなくする枠組み」へと変わりました。
人々が新しい働き方を選ぼうとしても、制度がそれを想定していない。
変えようとしても、制度がブレーキを踏んでしまう。
制度が抱える根本的な問題
- 設計が「人口が増え続ける時代」のまま止まっている
- 政策が縦割りで、全体の流れを誰も見ていない
- 「守ること」が目的化し、「変えること」が例外扱いになっている
制度は本来、人を守るためにある。
けれど今は、人の動きをためらわせる壁になっている。
2-2. 上げたくても、上げられない企業
次の滞りは、企業の内部です。
多くの経営者が「人に還元したい」と考えていても、
実際に賃金を上げる力を持てていません。
国内の産業構造は、重層的な下請け関係に縛られています。
価格決定権は上流に集中し、下流ほど圧迫される。
原価が上がっても、値上げできない。
その結果、削られるのは人件費です。
内部留保が積み上がっても、賃上げに回りにくい。
企業が悪いのではなく、分配の通り道そのものが狭いのです。
企業が抱える根本的な問題
- 利益が上層に集中し、下層へ流れにくい構造
- 価格転嫁の仕組みが機能せず、下請けほど疲弊している
- 「人件費=コスト」という意識が、循環を止めている
企業の努力が空回りするのは、
その努力を受け取る“仕組み”が整っていないからです。
2-3. 誰も声を上げない社会
最後の滞りは、社会の意識にあります。
「安さ」や「我慢」が、あまりにも長く“美徳”として刷り込まれてきました。
値上げを避け、転職をためらい、波風を立てないように振る舞う。
誰もが少しずつ“下げる努力”をしているうちに、
経済全体が静かに冷えていった。
それは怠けではなく、長い安定志向の副作用です。
でも、変化を拒む空気が続けば、
制度も企業も、社会も動き出せない。
社会が抱える根本的な問題
- 「安さ」や「我慢」を是とする文化が根付いている
- 転職・値上げ・議論に対して心理的抵抗が強い
- 公平よりも「波風を立てないこと」を優先している
変化を受け入れる準備ができていない社会では、
改革の仕組みも、支援の声も届かない。
2-4. どこで流れが止まっているのか
制度は変化を抑え、企業は分配を止め、社会は声を上げない。
この三つが重なったとき、流れは完全に止まります。
制度が動かなければ、企業も動けない。
企業が動かなければ、社会も変わらない。
その循環が、いまの日本の構造的な停滞を生み出しています。
次の章では、この3つの層をひとつの構造として可視化し、
どこで詰まり、どこから動かせるのかを具体的に見ていきます。
【3】構造をほどく──分配のどこで流れが止まっているか

前章では、停滞の要因として3つの課題が見えてきました。
・「変えようとしても変わらない仕組み(制度の硬直)」
・「上げたくても上げられない企業(構造の分断)」
・「誰も声を上げない社会(心理的欠如)」
どれも単独の問題ではなく、互いに影響し合いながら「分配の流れ」を止めています。
制度は人の動きを縛り、企業は利益の流れを滞らせ、社会は変化を拒む空気を生み出す。
こうして、変わろうとする力が層のどこかで吸収されてしまう構造になっているのです。
この章では、これら3つの課題をもとに原因の根をたどる視点で、
制度・企業・社会の3層をKPIツリーとして分解していきます。
KPIツリーとは、ひとつの大きな結果(ここでは「賃金が上がらない」)を構成する要因を枝分かれのように整理し、
上位と下位の関係を可視化する分析手法です。
表面ではなく、構造そのものを見ていく。
どこで、なぜ流れが止まっているのか──
それを明らかにすることが、この章の目的です。
3-1. 制度がブレーキになっていた
守るための制度が、いまや変化を阻む枷に変わっている。
それは制度そのものの問題ではなく、制度同士の連動の欠如にあります。
雇用制度は「安定」を、税制は「公平」を、社会保障は「持続」を守ろうとする。
けれど、それぞれが別の方向を見て動くため、
結果的に「誰も全体を動かさない」状態になっている。
KPIツリー構造(制度層の因果)

このツリーから見えるのは、
「制度が悪い」のではなく、「つながっていない」ことが最大のロスだという点です。
雇用制度は安定を守り、税制は公平を守り、社会保障は持続を守る。
どれも正しい“方向性”を持ちながら、連携がない。
それぞれが独立したまま動き、全体の流れが分断されている。
制度がブレーキになる瞬間とは、
「維持すること」そのものが成果になったときです。
動かすことより、止めないことが評価される。
その瞬間から、賃金という成果の流れも止まってしまう。
制度を再び“支える仕組み”として動かすためには、
ルールを変えることを例外ではなく日常にする。
更新を「不安定化」ではなく「循環」として受け入れる。
それが、次の層へと流れを取り戻す前提になります。
3-2. 企業で利益の流れが詰まっている
制度の次に止まっているのは、企業の内部構造です。
利益を生んでも、それが働く人へ届かない。
「稼ぐ仕組み」と「配る仕組み」が切り離されてしまった。
企業は利益を確保する力を持っている。
けれど、その利益が内部に滞留し、循環しない。
結果として、人件費比率が上がらず、賃金が動かない。
KPIツリー構造(企業層)

このツリーで見えてくるのは、
「利益は出ているのに、流れが止まっている」という構造です。
内部留保の積み上げは安全の象徴であり、企業防衛の手段でもある。
しかし、それが循環を止める蓄積になった瞬間、
お金は動きを失い、社員の成長や賃金への投資が後回しになる。
“コスト削減”を是とする経営は、
短期的には効率的でも、長期的には社会全体を縮小させる。
価格を上げられない構造、利益を配れない制度、
そして成果を分け合えない文化が重なり、
企業は「上げたくても上げられない」存在になっている。
企業を動かすには、
利益の指標を「残す」から「回す」へと切り替える必要がある。
循環する利益こそが持続の条件。
それをKPIとして明確に定義することが、
企業層の詰まりをほぐす第一歩になる。
3-3. 社会が“上げない合意”を作っていた
最後に見えてくるのは、社会心理の層です。
賃上げを望んでいながら、それを拒む空気が存在する。
「声を上げない」ことが美徳になり、
「安さ」が善とされる。
その文化が、分配の流れを止めている。
KPIツリー構造(社会層)

社会は、誰かがつくるものではなく、
沈黙の積み重ねで形づくられる。
「安さのために誰かが犠牲になる」構造が、
“仕方ない”という合意のもとに固定化されている。
この層の問題は、法律や制度よりも根が深い。
価値観が更新されない限り、
どんな政策も企業努力も“空気”に吸収されてしまう。
つまり、日本の社会は、
「変わらない制度」と「上げられない企業」を背景に、
「上げない合意」をつくってしまった。
この心理的停滞こそが、分配の最後のボトルネックである。
3-4. 見えた共通点──止まる構造の正体
3つの層を見比べると、
それぞれが違う問題を抱えているように見えて、
実は同じ構造で止まっていることがわかります。
制度は「守るために止まり」
企業は「安全のために止まり」
社会は「波風を立てないために止まる」
つまり、どの層にも共通しているのは、
“変化をリスク”とみなす設計思想です。
更新よりも安定、変化よりも維持。
それが、この国の“止まる構造”の正体です。
流れを取り戻すためには、
この3つの層を別々に動かすのではなく、接続しながら動かすこと。
制度が変われば、企業の分配も変わる。
企業が動けば、社会の意識も動く。
そして、その始まりはいつも、個人の選択からです。
次章では、制度・企業・社会を「循環させる」ための
具体的な再設計のポイントを探っていきます。
【4】流れを取り戻す──“動かすポイント”から考える改善策

止まっている構造を見つけたら、次はどう動かすかを考える番です。
制度も、企業も、社会も、それぞれ違う場所で流れが滞っている。
でも、その根っこは同じ。
変化を怖がり、動かないことを「安定」としてきたことにあります。
ここでは、前章で分かった“滞りのもと”をもう一度見直し、
どこを動かせば流れが戻るのかを整理していきます。
焦点は仕組みよりも、人の意思です。
仕組みは、動かそうとする誰かの手でしか変わりません。
4-1. 制度を動かす:固定から“循環”へ
制度は本来、暮らしを守るためにあるはずでした。
けれど今は、「守ること」そのものが目的になり、動きを止めてしまっている。
止まっていた要因を分けると、次の3つになります。
- 雇用制度の硬直
- 税と社会保障のずれ
- 政策の決定が遅すぎること
雇用制度の硬直をほぐす
終身雇用や年功序列。
かつては安心の象徴でしたが、今では動きを縛る鎖になっています。
転職や副業をしても評価が下がらない仕組みをつくること。
働く単位を“人”ではなく“スキル”で考えること。
そうすれば、誰もがもう少し自由に動ける社会になります。
税と社会保障のずれを埋める
税と社会保障が別々に動いている限り、分配はうまく回りません。
税は働く人を前提に、社会保障は支える人を前提に作られている。
このずれをつなぐのが、仕組みの“再設計”です。
所得や雇用形態に応じて自動的に最適化される構造。
マイナンバー制度が本気で生きるのは、そうした設計に踏み込んだときです。
政策決定の遅さを縮める
前例主義や縦割りが、変化のスピードを奪っています。
完璧な制度を作ろうとして時間をかけすぎる。
結果、社会の方が先に動いてしまう。
小さく試して、失敗したらすぐ直す。
そんな“試しながら動かす”文化を行政にも広げていく必要があります。
制度を動かすとは、守るものを壊すことではなく、更新を当たり前にすること。
更新が日常になれば、制度はまた「支える装置」に戻れるはずです。
4-2. 企業を変える:ためるより、回す経営へ
企業の中では、利益が止まっています。
働く人が努力しても、賃金に届かない。
企業が儲かっても、内部に滞る。
その理由は3つ。
- 利益が動かない
- 価格競争から抜け出せない
- 人事制度が古いまま
利益を“循環”させる
内部留保を積み上げるのは悪ではありません。
けれど、それが「次の投資」に変わらなければ、社会は冷えていく。
利益を人や技術、地域に戻す仕組みを作る。
ため込むより回すほうが、企業も強くなります。
価格競争の鎖を断つ
「安くすれば売れる」は、もう成り立ちません。
価格だけに頼ると、下請け構造とともに体力が削られていく。
差別化は“安さ”ではなく、“信頼”や“独自性”の中にある。
価値の軸を移せた企業から、流れは動き始めます。
人事制度を“成果の循環装置”に
年功序列や定期昇給の時代は終わりつつあります。
学び直しや社内起業など、個人が成長すれば組織も育つ仕組みを整えること。
人への投資を「コスト」ではなく「未来への配分」として扱うこと。
そうすれば、企業はもう一度“人を動かす場”に戻ります。
4-3. 社会を変える:沈黙から“声を上げる文化”へ
社会の層で止まっているのは、構造ではなく“心”です。
多くの人が「変わってほしい」と思いながら、同時に「波風を立てたくない」と感じている。
この矛盾が、分配の流れを静かに止めています。
「安さの信仰」を手放す
安いことが正義という感覚が、働く人を苦しめています。
安いほど良いではなく、「続けられる価格」こそが正しい。
値上げが悪ではなく、持続のための選択だという意識を広げていく。
「我慢の美徳」から「支え合いの価値」へ
黙って耐えることが、いつの間にか称えられるようになった。
けれど、声を上げることは、誰かを困らせる行為ではなく、社会を変える第一歩です。
助けを求めること、異を唱えることを“参加”と考える社会にしたい。
「対話の欠如」を埋める
意見を言っても届かない、言えば角が立つ。
そんな空気が、変化の芽を摘んでいます。
違う立場を持つ人と話すこと。
意見をぶつけるのではなく、すり合わせること。
社会を動かすのは、政策でも制度でもなく、日常の対話です。
4-4. 動かすための接続点
制度、企業、社会。
この3つは別々の話ではありません。
どこか一つが止まると、他の流れも鈍くなる。
制度が変わっても、企業が動かなければ意味がない。
企業が変わっても、社会が受け入れなければ続かない。
社会が変わっても、制度が追いつかなければ戻ってしまう。
だからこそ、層と層をつなぐ“接続点”を整えることが大事です。
制度と企業を結ぶのは政策、企業と社会を結ぶのは教育、
社会と制度をつなぐのは、私たち一人ひとりの声です。
動かすとは、分断を埋めること。
そして、その小さな動きが重なれば、社会の流れはもう一度めぐり始める。
次章では、その最初の動きが「個人の選択」からどう始まるのかを見ていきます。
【5】もう一度、流れをつくる──半径5メートルから始める分配の再設計

どんな大きな仕組みも、最初は誰かの小さな動きから始まります。
社会の循環を取り戻す力は、法律や制度の外にもあります。
この章では、「半径5メートル」――自分の周りを少しずつ動かす視点から、
分配の流れをもう一度つくり直す方法を考えます。
制度も企業も社会も、突き詰めれば人の集合体です。
つまり、私たち一人ひとりが動けば、少しずつでも全体が変わる。
それがこの章で伝えたいことです。
5-1. 個人の視点:自分の選択から、流れを変える
どんな制度改革も、どんな企業改革も、結局は「個人の意思」から始まります。
転職する、学び直す、買い物で選ぶ、声を上げる。
その一つひとつが、社会のKPIを動かすアクションになります。
大げさに構える必要はありません。
毎日の買い物で「誰を応援するか」を選ぶ。
仕事で「なぜそれを続けているのか」を考える。
その繰り返しが、“止まっていた分配の歯車”を静かに回し始めます。
5-2. 社会の視点:“我慢の美徳”を“支え合いの文化”へ
声を上げる人を笑う空気は、もう終わりにしたい。
「みんな大変だから我慢しよう」ではなく、
「みんな大変だから助け合おう」という社会へ。
子どもたちに「声を出す勇気」を教えること。
意見が違う人と話す時間を持つこと。
それだけで、社会の温度は少し上がります。
変化は、反対意見の中から生まれます。
対立を避けるより、対話を続ける方がずっと健全です。
5-3. 企業の視点:「コスト」から「循環」へ
経営者にとって、賃金を上げることは勇気のいる決断です。
けれど、それは企業の負担ではなく、社会全体への“投資”です。
従業員を信じて育てること。
利益の一部を未来に回すこと。
その選択が企業の競争力を生み、地域を支える力になります。
働く人の側も同じです。
「会社が変わらない」と嘆く前に、
「自分の仕事をどう循環に関わらせるか」を考えてみる。
動く人が増えれば、企業も必ず動き出します。
5-4. 制度の視点:変化を受け入れる土台を整える
制度を動かすのは、政治家や官僚だけではありません。
投票も意見投稿も、社会実験に参加することも、すべてが関わり方です。
「制度が変わらない」と諦める前に、
自分の暮らしを支えている制度を知ることから始める。
社会保障や税金の仕組みを学び、意見を伝える。
その積み重ねが、制度の“更新”を支える力になります。
制度は遠い存在ではなく、私たちの生活そのものです。
変化を受け入れる土台は、暮らしの中にしかありません。
5-5. 小さな流れが、社会を動かす
半径5メートルの中でできることは、驚くほど多い。
家庭での会話、職場での提案、買い物の選択、SNSでの発信。
それらが積み重なって、社会の“意思”を形にしていく。
制度を変えるのは簡単ではない。
けれど、制度を動かす最初のきっかけは、
いつも「誰かの行動」から始まっている。
流れを取り戻すことは、巨大な改革ではなく、
小さな再設計の積み重ねです。
誰かがその最初の一歩を踏み出せば、
きっと、社会はもう一度、動き出す。
さいごに:希望は、“待つ”ものではなく“動かす”もの
社会の仕組みは、遠くにあるように見えて、実はすぐ足もとにあります。
誰かが変えるのを待つ間にも、私たちは自分の小さな選択を繰り返している。
その積み重ねが、やがて大きな方向を決めていく。
未来を良くするというのは、特別な誰かの仕事ではありません。
暮らしの中で、少しだけ“動かしてみる”勇気を持つこと。
隣の人と話してみる、仕組みに疑問を持つ、声を上げてみる。
それだけで、世界はほんの少し、違う形に見えます。
希望は、遠くに掲げる旗ではなく、
毎日の選択の中で灯し続ける小さな明かりです。
そして、その明かりが集まったとき、
社会という大きな流れは、静かに、しかし確かに動き始めるのです。
編集後記
この国の仕組みをどう見ればいいのか、自分自身の暮らしの延長として考えたとき、簡単に答えは出ませんでした。
でも、調査や数字を追う中で、確かに感じたことがあります。
それは、静かに動いている人たちがいるということ。
制度の隙間で新しい仕組みを試す人、
企業の中で小さな改善を積み上げる人、
家庭の中で時間や負担を分け合う人。
社会は止まっているように見えても、その下では確かに動いている。
そうした“見えない動き”を拾い上げたくて書きました。
批判するためではなく、流れを取り戻すために。
KPIやデータは、数字や文字の羅列ではなく、
社会がどこで止まり、どこから動き出せるのかを見つけるための地図です。
仕組みを変えることは難しい。
けれど、仕組みの中にいる私たちが意識を変えることはできる。
希望は、大きな改革ではなく、小さな選択の中にあります。
その積み重ねが、少しずつ社会の流れを温めていく。
このシリーズでは、“批判ではなく構造の理解”を通じて、
「どうすれば動かせるのか」を探していきます。
編集方針
- 複雑な社会構造を、データとストーリーで「自分ごと」として理解できるようにする。
- 「分配の停滞」を批判ではなく、仕組みとして可視化し、改善の糸口を示す。
- 専門用語を使いすぎず、読者が“構造のつながり”を自然にイメージできる文章に整える。
- 政治・経済・文化を切り離さず、制度・企業・個人の連鎖として描く。
- 問題提起で終わらせず、「半径5メートルから動かす」という希望の行動指針を提示する。
- 分析と感情のバランスをとり、冷静さの中に温度を残す。
- 読者が「読んで終わり」ではなく、「考え、動き出す」きっかけを持てるように編集する。
参照・参考サイト
日本の賃金が上がらない理由は?賃上げのために企業ができること
https://edenred.jp/article/productivity/242/
誤解が多すぎ「日本の賃金が上がらない」真の理由
https://toyokeizai.net/articles/-/629479
なぜ日本では給与が上がらないのか?(Mercer)
https://www.mercer.com/ja-jp/insights/consultant-column/806/
なぜ日本の賃金は伸びないのか(神戸大学ニュースサイト)
https://www.kobe-u.ac.jp/ja/news/article/feature0004/
日本の賃金は、なぜ4半世紀も上がっていないのか
https://www.kigyoujitsumu.com/sp_column/id%3D46388
なぜ日本の賃金は大きく上がらなかっただろうか-名目賃金の増加(NLI リサーチ)
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id%3D73381?site=nli
所得格差を表すジニ係数とは?日本の所得格差の現状を解説
https://gooddo.jp/magazine/sdgs_2030/reduced_inqualities_sdgs/4358/
この10 年で賃金が上がっている・上がっていないのは誰か
https://www.dlri.co.jp/report/ld/444803.html
第1章 賃金の現状と課題 ‒ 厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/roudou/23/2-1.html
「日本の所得格差をどうみるか」 ‒ 日本労働問題研究所
https://www.jil.go.jp/institute/rodo/documents/report3.pdf
これらは、政策分析、企業論、統計データ、格差論など複数視点から「賃金が上がらない構造」を検討するうえで参考にした情報源です。
関心のあるテーマを深める入り口として併記しています。


コメント