応神天皇初代説を検証|巨大古墳・渡来人・周王朝仮説

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応神天皇は、公式の皇統譜では第15代天皇であり、初代天皇は神武天皇です。

一方、本記事では、後の天皇制につながる王権の実体が明確になり始める最初の大王という意味で、応神天皇を「歴史上の初代」と考えます。

実在した最初の天皇を考えるとき、神武天皇、崇神天皇、応神天皇のどこに「始まり」を置くかは、その基準によって変わります。

以前の記事では、「神」を冠する神武・崇神・応神の三人が、それぞれ新しい始まりに立つ王だったのではないかという仮説を取り上げました。

今回はそのうち、応神天皇に焦点を当てます。

神武天皇を建国の始まり、崇神天皇を再建の始まりとするなら、応神天皇は何の始まりだったのか。

筆者は、ここに王権実体化の始まりを見ています。

応神天皇の前後には、空白の4世紀に進んだ王権の再編、河内の巨大古墳、朝鮮半島や中国大陸との交流、文字・馬・鉄を扱う渡来系の人びと、そして5世紀の倭の五王へ続く外交が重なります。

では、この変化の境目に応神天皇を置くことはできるのでしょうか。

巨大古墳があるから応神天皇は実在した、渡来人が増えたから王朝が交替した。

そこまで単純には言えません。

史料や考古学から確認できるところまでを押さえ、その先に応神天皇をどう位置づけられるのかを考えます。

あわせて本記事では、神武天皇の物語に周武王の建国記憶、崇神天皇の物語に周平王の東遷と再建の記憶が重ねられた可能性も検討します。

周武王や周平王本人が日本列島で天皇になったという説ではありません。

渡来系集団が受け継いだ祖先や王統の記憶が、列島側の伝承と融合したのではないかという筆者仮説です。

確認できる事実と伝承、研究上の説、筆者の推論を分けながら、応神天皇をどの意味で「初代」と呼べるのかを考えます。

【1】応神天皇は第15代でも「歴史上の初代」なのか

公式の皇統譜では、初代天皇は神武天皇です。

応神天皇は第15代なので、系譜の上で初代になることはありません。

それでも本記事が応神天皇を「歴史上の初代」と考えるのは、代数とは別の基準で王権の始まりを見ているからです。

問題にしたいのは、「最初の天皇として記されたのは誰か」ではなく、「後の天皇制につながる王権の姿を、どの時代から具体的に追えるのか」です。

公式系譜では神武天皇が初代、応神天皇が第15代

『古事記』『日本書紀』と皇統譜に従えば、神武天皇が初代、崇神天皇が第10代、応神天皇が第15代です。

この順序そのものを、本記事で変えるわけではありません。

神武天皇は、あくまで公式上の初代です。

そのうえで、実際の王権がどのような力を持ち、どこまで広がっていたのかを考えると、別の「始まり」が見えてきます。

応神天皇の時代は「天皇」より「大王」と考える

応神天皇の時代に、現在と同じ意味の「天皇」号が使われていたとは確認できません。

そのため、当時の政治を考えるときは、「天皇」という後世の呼び名だけで見るより、各地の有力者をまとめる「大王」と捉えたほうが実態に近づきやすくなります。

歴史上の初代天皇:後の天皇制につながる王権が、考古学や外交などから具体的な姿を見せ始める最初の大王を指す、本記事上の定義です。

つまり、ここでの「初代」は、皇統譜の順番ではありません。

王権の実体をどこから追えるのか、という問いに対する呼び方です。

神武・崇神・応神は異なる始まりを担っている

神武天皇、崇神天皇、応神天皇を、同じ意味で「初代」と見る必要はありません。

人物公式上の位置づけ初代と見る意味主な判断材料
神武天皇初代建国の始まり神武東征の伝承
崇神天皇第10代再建の始まりハツクニシラスの伝承
応神天皇第15代王権実体化の始まり巨大古墳、外交、技術

神武天皇には建国の物語があり、崇神天皇には国を立て直した王としての伝承があります。

応神天皇の前後になると、巨大古墳、対外交流、渡来系の人びとや技術など、王権の規模を考える材料が増えてきます。

三人を並べる意味は、誰が本当の初代だったのかを一人に決めることではありません。

それぞれが、異なる「始まり」を担っている可能性を見ることにあります。

動員力・外交・技術・系譜を「初代」の判断基準にする

では、応神天皇を「王権実体化の始まり」と見る根拠は何でしょうか。

本記事では、巨大古墳を築くほどの動員力、列島外と交渉する外交、文字・馬・鉄を取り込む技術基盤、後代の王統へ続く系譜を手がかりにします。

これらがすべて、応神天皇一人によって始まったという意味ではありません。

見るべきなのは、応神天皇の前後で、王権の規模や働き方がどう変わっていくのかです。

その変化をたどることで、なぜ応神天皇の時代に一つの境目を置けるのかを考えていきます。

音声で聴く

この記事の内容を、Podcast形式の動画にもまとめました。応神天皇を「歴史上の初代」と見る考え方を、巨大古墳・渡来人・空白の4世紀・周王朝仮説との関係から音声で整理したい方はこちらから聴けます。

【2】空白の4世紀にヤマト王権はどう変わったのか

4世紀の日本列島は、中国の史書に倭の記録がほとんど現れないことから、「空白の4世紀」と呼ばれています。

ただし、記録が少ないからといって、列島の社会や王権まで停滞していたわけではありません。

むしろこの時期には、前方後円墳の広がりや朝鮮半島との交流を通じて、5世紀の倭の五王へつながる政治の枠組みが形を変えていったと考えられます。

中国史書の記録が薄くても列島社会は動いていた

3世紀の卑弥呼以後、中国史書における倭の記録は急に少なくなります。

外から見た記録が途切れるため、4世紀の日本列島で何が起きていたのかはわかりにくくなります。

一方、列島では前方後円墳が各地に広がり、有力者どうしのあいだで似た墓の形や葬送のあり方が共有されていきました。

政治的に一つの国へ統一されたとまでは言えません。

それでも、地域ごとに完全に孤立していたのではなく、広い範囲で有力者どうしが結びつく関係が生まれていたことはうかがえます。

4世紀後半から王権の拠点と外交が変わる

4世紀後半になると、ヤマト王権の動きは大和盆地の内側だけでは捉えにくくなります。

朝鮮半島との関係が深まり、人や物資が行き交う大阪湾周辺の意味も大きくなっていきました。

王権にとって必要だったのは、内陸の有力者をまとめる力だけではありません。

海の向こうとつながり、外から入る人材や技術を受け入れる力も求められるようになります。

こうした変化は、一人の王が突然作り上げたものではなく、複数の世代をまたいで進んだ王権の変化として見るほうが自然です。

倭の五王は列島を代表する王権の出現を示す

5世紀になると、中国南朝の史書に倭の五王が登場します。

倭王たちは中国皇帝へ使者を送り、自らの立場を対外的に示しました。

使節を送り、文書を用意し、列島を代表する王として交渉するには、それを支える人材と組織が必要です。

倭の五王が突然現れたというより、4世紀に進んだ政治や外交の変化が、5世紀になって中国側の記録にも現れたと見ることができます。

応神天皇の伝承に王権再編の記憶が重なる

応神天皇の伝承には、渡来する人びと、新しい技術、朝鮮半島との関係、河内への展開など、この時期の変化と重なる要素が多く含まれています。

もちろん、『古事記』『日本書紀』は応神天皇と同時代に書かれた記録ではありません。

そこに記された出来事を、そのまま一人の王の事績として受け取ることはできません。

ただ、4世紀後半から5世紀にかけて王権の性格が変わった記憶が、後に応神天皇の物語へ集められた可能性はあります。

応神天皇を「歴史上の初代」と考えるなら、まず見るべきなのは、個人の実在だけではなく、その名の前後で王権のあり方がどう変わったのかです。

【3】河内の巨大古墳は新しい王権の何を示すのか

応神天皇の時代を考えるうえで、河内に築かれた巨大古墳は見逃せません。

古墳が大きいというだけではなく、そこには人と物資を集め、長い時間をかけて動かせる政治の力が表れるからです。

とくに古市古墳群は、大和盆地の外側にありながら、大阪湾を通じて朝鮮半島や中国大陸へつながる位置にあります。

ここでは、古墳の立地、規模、墓制から、応神天皇前後の王権がどのような力を持ち始めたのかを考えます。

河内進出は交通路と鉄・銅・水銀に関係したのか

古市古墳群が築かれた河内は、大和盆地と大阪湾を結ぶ地域です。

海へ出れば、瀬戸内海を通じて西日本へ向かうことも、朝鮮半島や中国大陸との交流につなげることもできます。

人や物資、技術が集まる場所として、河内は大和盆地とは異なる強みを持っていました。

河内への展開を、鉄・銅・水銀などの資源確保と結びつける見方もあります。

ただ、王権が河内へ重心を広げた理由を、資源だけで説明するのは難しいでしょう。

海上交通、対外交流、物資の集積など、複数の条件が重なっていたと見るほうが自然です。

誉田御廟山古墳が示す大規模な政治動員

応神天皇陵に治定される誉田御廟山古墳は、5世紀前半に築かれた墳丘長約425メートルの巨大な前方後円墳です。

これほどの古墳は、少人数で築けるものではありません。

大量の土を運び、資材を集め、多くの人を長期間動かす仕組みが必要になります。

425メートル級の古墳を築けたという事実からは、一つの集落を超えて人や物資を集める政治的な力があったことがうかがえます。

古墳の大きさは、そのまま王の支配範囲を示すものではありません。

それでも、これほど大規模な造営を可能にした動員の仕組みは、当時の王権を考えるうえで重い意味を持ちます。

応神・仁徳期に巨大前方後円墳が集中する

百舌鳥・古市古墳群では、4世紀後半から5世紀後半にかけて、巨大な前方後円墳が相次いで築かれました。

一基だけではなく、巨大古墳が続けて造られている点が重要です。

この時期、河内と大阪湾周辺が、王権の儀礼や交通、対外交流を支える地域として存在感を強めていたことがわかります。

ただし、『古事記』『日本書紀』に記された天皇の在位年代と、古墳の築造年代を一対一で対応させることはできません。

「この古墳はこの天皇の墓」と単純に結びつけるのではなく、巨大古墳が集中した時代そのものを見る必要があります。

副葬品と墓制の変化に王権の性格が表れる

古市古墳群周辺では、武具を表す埴輪や、大陸・朝鮮半島との交流をうかがわせる馬具が確認されています。

そこから見えるのは、葬送のためだけに閉じた王権ではありません。

軍事に関わる装備や、海を越えて入ってきた技術や文物が、王や有力者の権威と結びついていきます。

巨大古墳と、その周囲に築かれた大小の古墳の配置も、王を中心とする政治的な序列を表していた可能性があります。

墓の大きさや副葬品の違いは、生前の立場や王権との関係を示す方法でもあったのでしょう。

巨大古墳だけでは被葬者の名を特定できない

宮内庁は、誉田御廟山古墳を第15代応神天皇の惠我藻伏崗陵に治定しています。

ただし、陵墓としての治定と、考古学上の被葬者の特定は同じではありません。

誰が葬られたのかを確定するには、築造年代だけでなく、埋葬施設、副葬品、同時代の記録などを重ねて検討する必要があります。

そのため、誉田御廟山古墳が巨大だからといって、それだけで応神天皇本人の墓だと証明することはできません。

一方で、この規模の古墳を築ける王権が5世紀前半の河内に存在したことは、応神天皇前後を「王権実体化の始まり」と見るうえで無視できない事実です。

【4】応神朝の渡来人・文字・馬・鉄は何を変えたのか

応神天皇の時代には、大陸や朝鮮半島から来た人びとに関する伝承が多く残されています。

そこで語られるのは、人の移動だけではありません。

文字を扱う知識、馬の飼育、生産技術など、それまでの王権にはなかった力を持つ人びとが加わっていく姿です。

こうした伝承を、外から来た集団が列島を征服した記録と見る必要はありません。

むしろ、広い地域を治めるために必要な人材や技術が、王権の内側へ取り込まれていった記憶として読むことができます。

記紀では応神朝に渡来人伝承が集中する

『古事記』『日本書紀』には、応神天皇の時代に大陸や朝鮮半島から人びとが来たという話がまとまって記されています。

よく知られているのが、阿直岐、王仁、弓月君です。

ほかにも、文書、馬の飼育、縫製などに関わる人びとの来訪が語られています。

ただし、記紀が編纂されたのは応神天皇の時代よりはるかに後です。

記された人数や年代を、そのまま当時の記録として受け取ることはできません。

複数の渡来系氏族が伝えていた祖先の物語が、後に応神朝へ集められた可能性もあります。

阿直岐・王仁・弓月君が伝える知識と技術

阿直岐は、馬の飼育や漢籍に関わる人物として語られます。

王仁の伝承では、典籍や文書を扱う知識が前面に出ます。

弓月君の物語は、一人の知識人というより、多くの人びとの移住や生産活動と結びついています。

三者の伝承は同じではありません。

それでも共通しているのは、王権の外から来た人びとが、新しい知識や技術を担う存在として描かれていることです。

王仁が日本へ初めて文字を伝えたと断定するより、文字を使える人材が王権へ加わっていった記憶と見るほうが、史料の性格には合っています。

馬・鉄・武具・外交が広域王権を支えた可能性

古墳時代中期には、朝鮮半島との交流を通じて、馬や鉄素材、それを扱う技術が列島へ広がりました。

馬があれば、人の移動や情報伝達の範囲は広がります。

鉄製の武具は軍事に関わり、文字や通訳の知識は外交や組織の運営に欠かせません。

広い地域をまとめる王権には、こうした技術を受け入れるだけでなく、必要な場所や人へつなぐ仕組みも求められます。

もちろん、武具の生産や流通のすべてをヤマト王権が一元的に支配していたとまでは言えません。

それでも、人材と技術の流れが王権の力と結びつき始めたことは、この時代の大きな変化です。

渡来文化の流入は外来王朝の征服を意味しない

渡来系の人びとや技術が増えたからといって、外来集団が列島を征服し、そのまま新しい王朝を作ったことにはなりません。

考古学や伝承から見えるのは、朝鮮半島の諸勢力、ヤマト王権、列島各地の有力者が、人や物を行き来させながら関係を築いた過程です。

そのなかで、渡来系の人びとが持つ文字、技術、生産力、外交の知識が、列島側の勢力と結びついていきました。

応神天皇前後の変化を見るなら、外から来た人びとが王権を入れ替えたと考えるより、王権そのものの働き方が変わっていったと見るほうが実態に近いでしょう。

【5】記紀とゲノム研究は応神天皇初代説をどこまで支えるか

応神天皇を「歴史上の初代」と考えるとき、伝承、研究上の説、考古学、ゲノム研究を同じ重さで扱うことはできません。

それぞれが示せることは違います。

記紀は王統や祖先の記憶を考える手がかりになりますが、同時代の記録ではありません。

古代ゲノム研究は人びとの移動や混合を示せても、特定の天皇の血統までは判定できません。

ここでは、第6章で筆者の仮説を示す前に、どこまでが根拠として使え、どこから先が推論になるのかを確認していきます。

記紀は応神天皇の時代から数百年後に編纂された

『古事記』『日本書紀』が編纂されたのは、応神天皇の時代とされる時期から数百年後です。

そのため、初期の天皇系譜や渡来人伝承を、応神天皇と同時代の記録として読むことはできません。

一方で、後世に書かれたからといって、すべてが創作だと決めつけることもできません。

祖先の名前、移動、建国、王統に関する古い記憶が伝えられ、編纂の過程で天皇の系譜へ組み込まれた可能性はあります。

記紀を見るときに難しいのは、史実か創作かを二つに分けることではありません。

どの部分に古い記憶が残り、どの部分が後世の政治や系譜に合わせて組み直されたのかを見極めることです。

「胎中天皇」伝承は王権の正統性をどう語るのか

応神天皇は、神功皇后の胎内にいる時点から、皇位を継ぐ特別な存在として語られます。

いわゆる「胎中天皇」の伝承です。

この物語では、応神天皇は生まれる前から次の王として位置づけられています。

新しい王の登場を語りながら、前代との血統の連続も切らない。

その両方を成り立たせる物語として読むことができます。

もちろん、この伝承だけで王朝交替があったことや、応神天皇が実在したことを証明することはできません。

それでも、応神天皇の登場に特別な説明が与えられていること自体は、この王が系譜のなかで特別な位置を占めていたことを考える手がかりになります。

応神・仁徳の同一人物説と分化説をどう見るか

応神天皇と仁徳天皇については、記紀に記された二人をそのまま別々の王と見るだけでなく、一人の王に関する記憶が二人へ分かれたのではないかという見方もあります。

ただ、説が存在することと、それが確定していることは別の話です。

応神天皇と仁徳天皇が同一人物だったと決めるだけの証拠は今のところ出てきていません。

本記事で注目したいのは、二人を一人と見るか二人と見るかより、その時代、河内に巨大古墳が築かれ、王権の規模や対外関係が大きく変わっていくことです。

人物比定が定まらなくても、時代の変化そのものまで消えるわけではありません。

古代ゲノム研究は天皇家の血統を証明しない

古代ゲノム研究からは、日本列島の人びとが、複数の祖先集団の流入と融合を経て形成されてきたことがわかってきました。

これは、古代の列島が外から閉ざされた社会ではなく、人の移動と混合が続いていたことを考えるうえで大きな手がかりになります。

ただし、そこから神武天皇、崇神天皇、応神天皇の血統を判定することはできません。

渡来系集団が列島へ入り、在来の人びとと融合したことと、特定の王統や天皇家の直系血統を証明することは別の話です。

本記事で扱う王統記憶の仮説も、ゲノム研究が直接証明したものではありません。

ゲノム研究が示す人の移動と、文献や伝承に残る王統の記憶をどう結びつけるか。

そこから先は、史料を読み合わせた筆者の推論になります。

河内王朝説と王朝交替説は確定した通説ではない

河内への政治的な重心の移動や巨大古墳の出現から、応神・仁徳期に新しい王朝が成立したのではないかと考える説があります。

いわゆる河内王朝説や王朝交替説です。

ただ、王権の拠点が変わったことと、血統の異なる王朝へ完全に入れ替わったことは同じではありません。

巨大古墳が現れ、渡来人伝承が集中し、王統の語られ方にも変化が見える。

これらが同じ時期に重なることは確かに気になります。

しかし、それだけで一つの王朝が滅び、別の王朝が始まったと証明できるわけではありません。

第6章で扱うのは、王朝交替を断定することではなく、複数の変化が重なる応神天皇前後を、王権の新しい段階が始まる境目としてどう見るかです。

【6】応神天皇を「歴史上の初代」と考える筆者の結論

筆者が王権の境目を見るのは、応神天皇の前後です。

それ以前にも王や政治的なまとまりはありました。

しかし、この時期になると、巨大古墳、対外外交、渡来系の人びとが担った技術や知識が、一つの王権の動きとして重なって見えるようになってきます。

応神天皇前後に王権成立の条件が同時に変わる

巨大古墳を築くには、多くの人と物資を継続して動かす力が必要です。

朝鮮半島や中国王朝との関係には、使節、文書、通訳を支える人材も欠かせません。

応神天皇前後には、こうした政治、外交、技術の変化が同じ時期に重なります。

どれか一つだけで王権の成立を証明することはできません。

筆者が注目するのは、複数の変化が同時に進んでいることです。

応神天皇の名に新王権誕生の記憶が重なる

応神天皇の伝承には、特別な出生、渡来人、新しい技術、河内への展開が集まっています。

これらすべてを、応神天皇一人の事績として読む必要はありません。

4世紀後半から5世紀に進んだ王権の変化が、後に応神天皇という王の物語へ集められた。

筆者は、その可能性を考えています。

「神」の三帝は異なる始まりを象徴する

本記事では、神武天皇、崇神天皇、応神天皇を、それぞれ異なる始まりに立つ王と見ています。

筆者仮説では、神武天皇の物語には東周の初代国王:武王の建国、崇神天皇の物語には西周の初代国王:平王の東遷と再建の記憶が重ねられた可能性があります。

武王や平王本人が日本列島で天皇になった、という意味ではありません。

祖先や王統の記憶が列島側の伝承と結びつき、後に天皇の物語として組み直されたという見方です。

その先に、実際の王権の姿がより具体的に見え始める応神天皇を置きます。

応神天皇は仁徳系と継体系をつなぐ共通祖先

記紀の系譜では、仁徳天皇へ続く王統も、後の継体天皇も応神天皇へつながります。

この系譜から、生物学的な血統まで証明することはできません。

それでも、後代の王権が応神天皇を共通の祖先として位置づけたことは、その名が王統の中で大きな意味を持っていたことを示しています。

王権成立の基準から応神天皇を初代と位置づける

判断項目内容
支持する材料王権の動員力、外交、技術、後代へ続く系譜
直接には証明できない点応神天皇個人の実在、王朝交替、周王朝記憶の継承経路
筆者の評価王統記憶から歴史的王権へ移る境目に立つ大王

公式上の初代は、神武天皇です。

そのうえで筆者は、王権の姿を考古学や外交から追いやすくなる境目を、応神天皇の前後に見ます。

だからこそ、後の天皇制につながる王権が歴史の中で姿を現し始める最初の大王という意味で、応神天皇を「歴史上の初代」と考えているのです。

まとめ

応神天皇は、公式の皇統譜では第15代天皇です。

初代天皇は、あくまで神武天皇です。

そのうえで本記事では、別の基準から応神天皇を「歴史上の初代」と考えました。

筆者が境目を見るのは、4世紀後半から5世紀です。

この時期になると、巨大古墳を築く動員力、朝鮮半島や中国王朝と関わる外交、文字・馬・鉄を扱う人材や技術が重なり、王権の姿を具体的に追いやすくなります。

ただ、巨大古墳があるから応神天皇の実在が証明されるわけではありません。

渡来人の伝承が多いからといって、外来集団による王朝交替まで確定することもできません。

記紀の伝承、考古学、ゲノム研究には、それぞれ示せる範囲があります。

神武天皇に周武王の建国記憶、崇神天皇に周平王の東遷と再建の記憶が重ねられたという見方も、そこから先の筆者仮説です。

周武王や周平王本人が日本列島で天皇になったという意味ではありません。

祖先や王統の記憶が長く受け継がれ、列島側の伝承と結びついた可能性を考えています。

そう見ると、神武天皇は建国の始まり、崇神天皇は再建の始まり、応神天皇は王権が歴史の中で具体的な姿を見せ始める段階に立つ王として捉えられます。

応神天皇初代説は、確定した学説ではありません。

それでも筆者は、王統の記憶を中心に語られる時代から、巨大古墳や外交によって王権の実体を追える時代へ移る境目を、応神天皇の前後に置きます。

その意味で、応神天皇を「歴史上の初代」と考えています。

よくある質問

Q. 応神天皇は本当に初代天皇なのですか

公式の皇統譜では、初代天皇は神武天皇で、応神天皇は第15代です。

本記事でいう「歴史上の初代」は、皇統譜の代数を変える意味ではありません。

後の天皇制につながる王権の姿を、巨大古墳や外交などから具体的に追いやすくなる最初の大王という意味で、応神天皇を位置づけています。

Q. 神武天皇や崇神天皇は実在しなかったという説ですか

本記事は、神武天皇や崇神天皇が実在しなかったと断定するものではありません。

初期の天皇伝承には、建国、移動、再建などに関する古い記憶が重なり、後に天皇の物語として組み直された可能性があると考えています。

実在した人物の記憶が含まれている可能性と、伝承として再構成された可能性は分けて考える必要があります。

Q. 神武天皇は周武王、崇神天皇は周平王本人だと考えているのですか

そのようには考えていません。

周武王や周平王本人が日本列島へ渡り、天皇として即位したという説ではありません。

筆者が考えているのは、周武王の建国や周平王の東遷と再建に関する王統の記憶が長く受け継がれ、列島側の伝承と結びついた可能性です。

神武天皇や崇神天皇の物語に、その記憶が重ねられたのではないかという筆者仮説です。

Q. 応神天皇陵とされる巨大古墳は、応神天皇の実在を証明しますか

巨大古墳だけで、応神天皇本人の実在や被葬者の名前を証明することはできません。

宮内庁が応神天皇陵に治定する誉田御廟山古墳は、5世紀前半の大規模な政治動員を考えるうえで有力な資料です。

ただし、「巨大な王墓が存在したこと」と「そこに応神天皇本人が葬られたこと」は別の問題です。

Q. 古代ゲノム研究は応神天皇初代説や天皇家の起源を証明しますか

直接の証明にはなりません。

古代ゲノム研究からは、日本列島の人びとが複数の祖先集団の流入と融合を経て形成されてきたことがわかります。

一方で、特定の天皇の血統や、天皇家の直系関係、王統の記憶がどのように受け継がれたのかまでは判定できません。

人の移動を示す研究と、特定の王統を証明することは分けて考える必要があります。

編集後記

今回の記事を書きながら、あらためて気になったのは、応神天皇の前後に変化が集中していることでした。

巨大古墳が現れ、朝鮮半島との交流が深まり、文字や馬、鉄を扱う人びとの存在も伝承に残る。

それらを一つずつ見るだけでは、応神天皇を「初代」と呼ぶ理由にはなりません。

ただ、同じ時代の流れに置いてみると、王権のあり方が変わり始めた境目として、応神天皇の存在が気になってきます。

神武天皇や崇神天皇についても同じです。

周武王や周平王との関係を事実として証明することはできませんが、なぜこの三人がそれぞれ「始まり」を思わせる物語を持つのか。

そこには、単なる偶然では片づけきれないものがあるように感じています。

もちろん、似ていることと、つながっていることは別です。

だからこそ、決めつけるのではなく、伝承と考古学の間を行き来しながら考えてみたくなります。

応神天皇を「歴史上の初代」と見る今回の仮説も、その途中にある一つの見方です。

参照・参考サイト

宮内庁 歴代天皇陵のご案内
https://www.kunaicho.go.jp/visit/ryobo/index.html

羽曳野市 応神天皇陵古墳
https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunka-sekai/bunkazainikansurukoto/bunkazai_shokai/kofun_chuki/2386.html

百舌鳥・古市古墳群世界遺産保存活用会議 百舌鳥・古市古墳群とは
https://www.mozu-furuichi.jp/jp/learn/mozu_furuichi.html

国立公文書館 日本書紀
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/02.html

国立歴史民俗博物館 加耶―古代東アジアを生きた、ある王国の歴史―
https://www.rekihaku.ac.jp/event/2022_exhibitions_kikaku_kaya.html

金沢大学 パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/96414/

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