子どものころ、数学が好きだった。
めちゃくちゃ得意というほどではなかったけれど、考える時間が好きだった。
一つずつ順を追っていけば、ちゃんと答えにたどり着く。
その感じが心地よかった。
大学生のころ、塾で中学生に数学を教えていた。
ある日、生徒のひとりが言った。
「先生、数学なんて意味ないよね。大人になって使わないし」
その言葉を聞いたとき、不思議と腹は立たなかった。
たぶん、自分も昔そう思ったことがあったからだ。
でも、その頃にはもうなんとなく気づいていた。
数学は“答え”を出すための勉強じゃなく、“考える”ための訓練だということを。
社会に出てから、その感覚はさらに強くなった。
仕事で意見がぶつかったとき、
私はまず相手の「前提」を探すようになった。
どの条件で話しているのか。
何を“1”とみなしているのか。
それが見えると、話はずっとスムーズになる。
私は仕事で下に人をつけてもらうとき、よく言う。
「数学ができる人に。でも、文系の人でお願いします」と。
それは、論理的に物事を考えられる人であり、
同時に、俯瞰で全体を見渡せる人という意味だ。
数字に支配されず、現実を見ようとする人。
数字の正確さも大事にしながら、
人の感情や現場の空気を想像できる人。
そういう人が、現実の中では強い。
もちろん、理系にもそういう人はたくさんいる。
だから、文系というより“視野の広い人”という方が近いかもしれない。
私はただ、論理と想像のバランスを持つ人と働きたいと思っている。
というのも、人の“思考パターン”は、そう簡単には変えられないからだ。
スキルや技術は後からでもつけられるけれど、
ものの考え方の癖は、根っこの部分にあってなかなか変えられない。
そこがすでに整っている人なら、教育にかかる工数は少なくてスムーズだ。
特に人をつけてもらう場合、
その人は最終的に自分の手足となって動いてもらうことになる。
だからこそ、思考の構造が似ているかどうかが大事になる。
論理で動き、感情で止まらない人。
けれど、冷たくはならない人。
そんな人が、チームを支えてくれる。
これからの時代、特にAIと関わる仕事では、
この「考える力」がますます大事になると思う。
AIは、よくあるパターンを組み合わせて答えを出す。
でも、「何を目的に置くか」「どんな方向に進むか」を決めるのは人間だ。
AIへの最初の指示(いわゆるプロンプト)は、
人間が俯瞰して物事を見て、総合的に考えた結果を最終的に言葉にする作業だ。
それは、AIにはまだできない。
子どもを育てることも、人を育てることも、
本質的には同じだと思う。
目の前の点数や結果を教えるのではなく、
「どう考えるか」を一緒に探していくこと。
AIがどれだけ進化しても、
自分の頭で考え、他人の心を想像する力だけは、
人間にしか残らないと思う。
数学は、ただの教科ではなかった。
人が考えるための、最初の練習だったのかもしれない。


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