高校生のころ、言葉にできない気持ちがあった。
頭の中では、いつもゴールから逆算して考えるタイプで、
順番に積み上げていくのが自分のやり方だった。
けれど、ちょっと完璧主義者で途中で話したり、表現したりすることがなかった。
だから周りからは「覇気がない」とか「何を考えているかわからない」と言われた。
それにモヤモヤしていた。
自分の中では、ちゃんと動いていたのに。
その“伝わらなさ”が、静かに心の奥に残った。
大学に入って、詩を書き始めた。
あのモヤモヤをようやく吐き出せる気がした。
難しい言葉を使って詩を書いた。
少しだけ反応があったけれど、届く人は少なかった。
あるとき、ためしに平易な言葉で書いてみた。
読んでくれる人は増えた。
けれど、中身は浅くなった。とても。
自分の中で、何かが薄まっていくようだった。
そのとき気づいた。
“簡単な形で、深いことを伝える”こと。
それが、いちばん難しくて、いちばん美しい。
あいだみつをの詩を読むと、
その難しさと静けさが、まっすぐ胸に刺さった。
当時、詩を読む人は多くはなかった。
それでも、何かを伝えたい気持ちは消えなかった。
そんなときに始めたのが、DJだった。
最初は、自分の好きな曲を並べていた。
マニアックで、反応する人もごくわずかだった。
けれど、少しずつわかってきた。
音も言葉と同じだと。
有名な曲をかけても、ただのメドレーでは心に届かない。
曲の順番、雰囲気、つながるリズム。
そのすべてが、感情の構造になる。
そして、本当に伝わるのは“うまく使える曲”じゃなく、自分が心から好きな曲をかけ続けたときだ。
好きだという気持ちが、音の奥に残る。
それが伝わる。
セット全体でひとつの物語を描けたとき、音が“詩”になる瞬間があった。
詩とDJ。
自分にとっては形は違っても、どちらも「平易な素材で深く伝える」行為だった。
表現には、二つの軸があると思う。
横に広がる線は「平行」。
誰にでも届く、わかりやすい形。
縦に伸びる線は「垂直」。
自分の奥まで掘り下げる深さ。
どちらかだけでは、届かない。
平行ばかりだと軽く、垂直ばかりだと孤立する。
そして今の自分にとって、このふたつの軸の“面積”を少しでも広げていくことが、目標のようなものになっている。
どれだけ深く掘りながら、どれだけやさしく伝えられるか。
その広がりの中でしか、自分の表現は生きていけない気がする。
気持ちを溜め込んでばかりでも、
表現ばかりしていても、どこかが空になる。
ためることと、出すこと。
そのバランスの中でしか、本当の表現は生まれない。
子どもが生まれて少しして、DJをやめた。
音は静かになったけれど、あのころのリズムは今も心の奥で鳴っている。
今やっているマーケティングの仕事も、ライティングの仕事も、根っこは同じだと思っている。
伝えるという行為のなかに、まだ見えない何かを探している。


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