「学校でいじめがあったそうだ」
そんな言葉を聞いたとき、出来事の重さをどう受け取っているでしょうか。
深刻な問題だと感じる人もいれば、学校内のよくある話として処理する人もいるかもしれません。
殴る。脅す。金品を取る。
無視を強要する。
行為だけを並べれば、大人の社会では犯罪として扱われるものばかりです。
それでも、場所が学校になると、
それらは「いじめ」という言葉にまとめられます。
それぞれの行為は隠れ、
危険性や責任は、薄くなっていきます。
そうした受け取られ方に、覚えがある人もいると思います。
ここで考えたいのは、
いじめがなぜ本気で止められないのか、その背景に「言葉の置き方」が関わっているのではないか、という点です。
いじめと呼ばれてきた出来事を行為ごとに見直し、
被害を受けた人がなぜ声を上げにくくなるのか、
そして学校という場所で、問題がどのように扱われてきたのかを整理していきます。
普段使っている言葉を、少し順番を変えて並べてみる。
それだけで、同じ出来事でも、見え方が変わってくることがあります。
【1】「いじめ」という言葉が、犯罪性を見えにくくしている
いじめの問題は、長く深刻だと言われ続けてきました。
それでも、決定的に状況が変わったとは言えない状況が続いています。
その理由を考えるとき、行為そのものより先に、私たちがどう受け止めているかに目を向ける必要があります。
ここで扱うのは、加害者の心理でも、被害者の内面でもなく、出来事を受け取る側の認識です。
とくに、「いじめ」という言葉が使われた瞬間に、何が起きているのかを考えていきます。
1-1. 「いじめ」と聞いた瞬間、出来事の位置づけが変わる
「いじめがあったらしい」
そう聞いたとき、多くの人はまず学校内の人間関係や、子ども同士のトラブルを思い浮かべます。
事件や犯罪という言葉から連想される、
緊張感や切迫感とは、少し距離があるゆるい受け止め方です。
殴られた。脅された。物を壊された。
一つずつ聞けば重く感じる行為でも、
「いじめ」という一語にまとめられた瞬間、
出来事は日常的な枠の中に置き直されます。
この時点で、
行為の内容より先に、扱いのレベルが決まってしまう。
言葉が、判断の順番を入れ替えている状態だったりします。
1-2. もし「いじめ」という言葉がなかったら
ここで、少しだけ想像してみます。
もし「いじめ」という言葉が存在しなかったら、どうなるでしょうか。
学校で殴る行為が起きたら、「暴力」と呼ぶしかありません。
脅して従わせたなら、「脅迫」や「強要」と言うしかない。
そう呼ばれた瞬間、
それは子どもの問題というより、行為の問題として認識されます。
誰が何をしたのか、という輪郭が、先に立ち上がる。
いじめという言葉は、説明を簡単にする便利なラベルです。
その一方で、複数の行為を一つにまとめ、
深刻さの差や責任の重さを見えにくくする役割も持ってきました。
1-3. 同じ行為でも、大人なら犯罪になるという違和感
同じことを大人がすれば、警察が関わり、法的な責任が問われます。
ところが、相手が子どもで、場所が学校になると、
犯罪という扱いから外れ、指導や教育の問題に置き換えられます。
ここで変わっているのは、行為の性質ではありません。
変わっているのは、呼び方と処理のされ方です。
「いじめ」という言葉に置きかえられた時点で、
犯罪として考える回路は、途中で止まってしまいます。
ここを当たり前として受け入れてきたこと自体が、
問題を長引かせてきた要因の一つだったのかもしれません。
【2】行為を分けて見ていくと、犯罪と重なる部分が見えてくる
ここまでで、
いじめという言葉が使われた瞬間に、出来事の扱いが変わることを見てきました。
ここからは、少し見方を切り替えます。
評価や感情はいったん脇に置き、
実際に何が行われているのかだけを順に確認していきます。
冷たい作業に感じるかもしれません。
けれど、曖昧なままにしないためには、一度必要な工程でもあります。
2-1. 暴力や脅しは、子どもであっても行為として消えない
殴る。蹴る。突き飛ばす。
怖がらせて言うことを聞かせる。
金品を差し出させる。
大人の社会では、これらは明確に犯罪として扱われます。
子どもが行った場合でも、行為そのものが別の性質に変わるわけではありません。
年齢によって責任の問われ方は異なります。
ただ、暴力や脅迫という行為が起きた事実は事実です。
それでも学校では、
こうした行為が「教育」や「指導」という枠にまとめられやすい。
行為の重さより、場の性質が先に判断を決めてしまう場面も多いように見えます。
2-2. ここだけは、行為を名前で呼んで整理してみる
ここで一度、
いじめと呼ばれがちな行為を、行為ごとに分けて整理します。
目的は、誰かを罰することではありません。
何が起きているのかを、正確に言語化するためです。
感情を挟まず、一覧にしてみます。
| いじめと呼ばれがちな行為 | 該当する主な犯罪 | 内容の整理 |
|---|---|---|
| 殴る・蹴る・突き飛ばす | 暴行罪/傷害罪 | 身体に対する力の行使。ケガの有無や程度で扱いが変わる |
| 脅す・怖がらせて従わせる | 脅迫罪 | 危害を加える旨を示し、恐怖を与える行為 |
| 金品を要求する・奪う | 恐喝罪/強盗罪 | 脅し取るか、暴力を伴うかで区別される |
| 物を壊す・隠す | 器物損壊罪 | 他人の所有物を故意に壊す、使えなくする行為 |
| 無視を強要する・仲間外れにする | 強要罪に該当する可能性 | 集団で行動や選択の自由を制限する |
| SNSで悪口を書く・晒す | 名誉毀損罪/侮辱罪 | 社会的評価を下げる情報の拡散 |
| 行動を監視する・逃げ場をなくす | 監禁罪に該当する可能性 | 身体拘束だけでなく、事実上の自由の剥奪も含む |
一覧にすると、
「子どもがやったから犯罪ではない」という認識が、
行為そのものを見ていないことに気づく人もいるかもしれません。
2-3. 犯罪が消えたのではなく、呼ばれなくなっている
ここまで確認してきた行為は、
存在しなくなったわけではありません。
ただ、学校という枠の中で、
複数の行為が「いじめ」という言葉にまとめられてきました。
その結果、行為ごとの重さや責任の違いが薄められてきた。
犯罪として扱われないから、問題が小さい。
そういう順番ではなかったように思います。
犯罪として認識される手前で、止まっていた。
その状態が続いてきたからこそ、
同じ構造が繰り返されてきたのかもしれません。
【3】被害者が「犯罪だ」と言えなくなっていく過程
ここまで見てきたのは、
出来事が外からどう扱われてきたか、という話でした。
ここからは、同じ出来事を実際に経験している人の側に目を向けます。
強いか弱いか、勇気があるかどうか、という話ではありません。
その場にいたら、どんな判断を重ねていくことになるのか。
その流れを、順にたどっていきます。
3-1. 口に出す前に、考えてしまうこと
被害を受けている本人は、
起きていることを「おかしい」と感じています。
まず、その感覚があります。
ただ、誰かに伝えようとしたとき、
頭の中でいくつかの確認が入る。
これを言ったら、どう受け取られるだろう。
どこまで話せばいいのだろう。
学校の中の話として、まとめられてしまわないだろうか。
いじめという言葉がすでに使われている場面では、
出来事は「学校内の出来事」として整理されています。
その枠の中で、自分の体験をそのまま出すと、
少し話が大きくなりすぎるように感じられることがある。
言葉を探す前に、
言い方を調整しようとしてしまう。
それは、ごく普通なことなのかもしれません。
3-2. 周囲の言葉が、基準になっていく
周囲から返ってくるのは、
「いじめだから」「よくあることだから」という説明です。
その言葉に納得したわけではなくても、
別の言い方が示されることはあまりありません。
繰り返されるのは、同じ整理のされ方です。
そうした言葉を何度も聞くうちに、
自分の感じ方と、周囲の理解の間に差があることに気づく。
そして、その差をどうしようかと考え始める。
自分の感じ方を押し出すか。
それとも、周囲の基準に合わせるか。
多くの場合、後者のほうが現実的に見えます。
話を続けるためには、そのほうが楽だからです。
あなたにも、似た場面の経験があるかもしれません。
3-3. 黙ることが、選択として残っていく
こうした判断を重ねた結果、
結局何も言わなくなる人がいます。
それは、我慢したというより、
これ以上状況を複雑にしないためです。
話しても、理解されないなら、
話さないほうが現実的に見えてきます。
そう考えるようになる。
犯罪という言葉が使われない環境では、
被害を被害として主張するには説得力が足りません。
その中で、黙るという選択肢だけが、
最後に残ってしまうんです。
【4】学校で起きた瞬間、扱いが変わってしまう境目
ここまで見てきたように、
いじめの問題は、個人の感情や判断だけで起きているわけではありません。
同じ行為でも、起きた場所によって扱われ方が変わる。
この点も、無視できない要素です。
学校という場所が、どのように問題の扱い方を切り替えてきたのかを見ていきます。
4-1. 行為は同じでも、場所が変わると処理が変わる
路上で殴られれば、事件として扱われます。
会社で脅されれば、問題になります。
ところが、同じ行為が学校で起きると、
「教育の一環」「指導が必要な問題」と置き変えられてしまう。
行為の内容は同じです。
変わったのは、起きた場所だけです。
それでも、
犯罪として扱うかどうかの判断は切り替わる。
この切り替えが、いつの間にか前提になってきました。
4-2. 「学校内の問題」に置き換えられると、見えなくなるもの
学校で起きた出来事は、
学校の中で解決すべき問題とされがちです。
そう整理されることで、
警察や司法といった外部の方法からは、離れてしまいます。
代わりに、話し合いや指導、反省といった方法が前に出てきます。
その結果、
誰が何をしたのか。
どこまでが加害で、どこからが被害なのか。
そうした線引きが、曖昧になっていきます。
責任がなくなったわけではありません。
ただ、どこにあるのかが見えにくくなってしまう。
そうした状態が続いてきました。
4-3. 問題が軽いのではなく、外に出にくいだけだった
学校で起きた出来事が軽く扱われてきたように見えるのは、
本当に軽かったからではないと思います。
外部の目が入りにくい。
共通の基準が持ち込まれにくい。
その仕組みの中で、問題が学校の内側にとどまり続けてしまう。
外に出なければ、
他の場所で起きた同種の出来事と比べられることもありません。
結果として、
犯罪として扱われる手前で、問題が止まってしまいます。
【5】「犯罪」という言葉に、ためらいが生まれる理由
ここまでで、
なぜ学校で起きた出来事が犯罪として扱われにくいのか。
その構造は、ある程度見えてきたと思います。
それでもなお、
「犯罪という言葉を使うのは違う気がする」
そんな感覚が残る人もいるかもしれません。
なぜそう感じてしまうのかを、少しだけ言葉にしてみます。
5-1. 「犯罪」と言うと、何かが決まってしまう気がする
犯罪という言葉には、強い印象があります。
警察、処罰、前科。
そうした連想が、ほぼ自動的についてくる。
だからこそ、
その言葉を使った瞬間に、
話が別の方向へ進んでしまう気がする。
子どもを追い詰めてしまうのではないか。
事態を大きくしすぎるのではないか。
そう考えるのは、ごく自然な感覚です。
犯罪と呼ぶ=厳しく罰する
そのイメージが、先に立ってしまうからです。
5-2. 行為を呼ぶことと、罰を決めることは別
ただ、ここで一度、切り分けて考えてみます。
行為をどう呼ぶか。
その行為にどう対応するか。
この二つは、本来、同じ段階の話ではありません。
殴る行為を「暴力」と呼ぶ。
脅す行為を「脅迫」と呼ぶ。
それは、処罰を決めるためというより、
何が起きているのかを誤らずに捉えるための作業です。
呼び方が曖昧なままだと、
判断そのものが始められない。
過剰にも、過小にもなりやすい。
行為を行為として呼ぶことは、
感情を強めることではなく、
判断基準を言語化することです。
5-3. 言葉を整えるのは、線を引くためだった
いじめという言葉でまとめてきた結果、
私たちは、線を引く材料を失ってきました。
どこからが許されないのか。
どこからが介入すべきなのか。
どの時点で、学校の外の仕組みにつなぐのか。
行為の名前が分かれていれば、
対応も自然と分かれていきます。
すべてを重く扱う必要はありません。
けれど、軽くしていい理由も、言葉なしには示せない。
犯罪という言葉を使うことは、
誰かを排除するためではなく、
見て見ぬふりをしないための線を引く行為だった。
【6】見え方が変わると、向き合い方も変わっていく
ここまで、
言葉、行為、判断、場所、そして抵抗感について見てきました。
いじめという問題が、
単なる子ども同士の出来事ではなく、
いくつもの要素が重なって成り立ってきたことも、
少しずつ輪郭を持ってきたと思います。
そうした見え方の変化が、
私たちの受け止め方にどんな影響を与えるのかを考えていきます。
6-1. 出来事を「なかったこと」にしない視点
これまで、
いじめが深刻化するまで止められなかった理由は、
誰かの怠慢や悪意として説明されることが多くありました。
けれど、
問題が問題として扱われにくい言葉と処理のされ方が、
そもそもの前提にあったことも見えてきます。
殴る行為は、殴る行為として。
脅す行為は、脅す行為として。
それぞれをそのまま呼ぶ。
それだけで、
出来事は「よくある話」ではいられなくなる。
後から消したり、薄めたりすることが難しくなる。
見え方が変わると、
出来事の置き場所も変わっていきます。
6-2. 沈黙を、弱さとしないために
声を上げられなかった人は、少なくありません。
それは、勇気が足りなかったからでも、
判断力がなかったからでもない。
ここまで見てきたように、
声を上げにくい判断が、何度も重なっていた。
その結果として、沈黙してしまっていたんです。
そう捉えると、
黙っていたという事実の意味が変わってきます。
責める対象が変わるのではありません。
理解の向け先が、少しずれる。
それだけで、同じ出来事の読み取り方は変わっていきます。
6-3. 次にその言葉を聞いたとき、立ち止まれるかどうか
次に、
「学校でいじめがあった」という言葉を見聞きしたとき。
そのとき、
少しだけ立ち止まって考える余地があるかどうか。
何が行われたのか。
誰が、どんな影響を受けたのか。
その行為は、別の場所ならどう扱われるのか。
いじめという言葉は、
出来事を説明するための便利なまとめ方です。
同時に、行為の輪郭をぼかしてしまう力も持っています。
見え方が変われば、
向き合い方も変わっていくでしょう。
編集後記
いじめという言葉は、
多くの人が知っているつもりで使っています。
けれど実際には、人によって思い浮かべている内容が少しずつ違う。
そこに、ややこしさがあるように思います。
殴ることを指している人もいれば、
無視のことを想像している人もいる。
同じ言葉なのに、見ているものは揃っていません。
その結果、
本来は犯罪として考えられる行為までが、
「いじめ」という言葉の中で軽く扱われてきた。
この記事で整理したかったのは、その点でした。
誰かを責めたいわけではありません。
ただ、次にこの言葉を聞いたとき、
「何が起きたのか」を一度だけ考えてみる。
それだけで、見え方は少し変わる気がしています。
編集方針
・いじめを「子どもの問題」ではなく、行為の性質から捉え直すことを再定義。
・感情論ではなく、言葉が現実を歪める構造であることを明確に。
・読者が認識のズレに気づき、考え直す視点を持つことを目的とする。
・刑法的な考え方と社会構造に基づく事実整理を重視。
・ニュースや日常の出来事を判断するための新しい物差しを提示。
参照・参考サイト
いじめ防止対策推進法
https://laws.e-gov.go.jp/law/425AC1000000071
体罰やいじめは犯罪にならないの?
https://www.ritsumei.ac.jp/law2/study/answer05.html
いじめが抵触する可能性がある刑罰法規の例
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1327873.htm
Act for the Promotion of Measures to Prevent Bullying
https://www.japaneselawtranslation.go.jp/en/laws/view/3748/en
いじめの実態と統計・警察や学校の危機感
https://jobsinjapan.com/living-in-japan-guide/bullying-in-japan-the-problem-of-ijime/

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