先の衆院選の期間中、XやThreadsを見ていて、なんだか疲れてしまったんです。
ある候補者の発言を切り取った動画に、何千件もの引用リポストが重なっていました。流れてくるのは「この政党のここが素晴らしい」という推しの声よりも、「あいつらは分かっていない」「ここがダメだ」というダメ出しばかり。自分の好きなものを語るより、嫌いなものを叩くほうが、簡単に拡散されていく。その光景を眺めているうちに、なんだか自分の心まで荒んでくる嫌な感覚がありました。
でも、これってSNSだけの話じゃないのかもしれません。 そもそも日本には、昔から「出る杭は打たれる」なんて言葉があるように、頑張っている人を素直に称えるより、まずは欠点を探して減点していくような、どこか「否定から入る文化」が根深く残っている気がします。失敗を許さない空気というか、正論という武器で誰かを正座させるのが正義、みたいな独特の息苦しさです。
そこにSNSが重なったから、余計にトゲが目立つようになっているんじゃないでしょうか。
あんなに激しく流れていった批判の言葉は、確かにその瞬間はスカッとするかもしれないけれど、後には何も残らない。結局、あとからじわっと思い出すのは、誰かの失敗をなじった言葉じゃなくて、「自分はこうありたい」と理想を語っていた投稿だったりします。
拡散されやすいのは「否定」かもしれないけれど、人の心にちゃんと届くのは、きっと別の形をしているのかもしれません。
【1】日本で「褒める」がこれほどまでに難しい理由
SNSを開くたびに、誰かが誰かを厳しくジャッジしている。 そんな光景を見ていると、「最近のSNSは殺伐としているな」と感じるけれど、よくよく考えてみると、それはネットの中に限った話ではないのかもしれません。
私たちはいつの間にか、「加点」よりも「減点」で物事を見る癖がついてしまっていないでしょうか。
「粗探し」が正義になっていないか
日本で過ごしていると、何かがうまくいったことへの称賛よりも、「ここが足りない」「ここが間違っている」という指摘のほうが、なぜか知的に見えたり、正義感があるように感じる空気があります。
以前、部署の若手が新しい企画を出したことがありました。正直、私は面白いと思ったのですが、会議室の空気が重く、「で、リスクは?」という言葉が最初に飛びました。私もつられて、「でも懸念点としては…」と続けてしまった。あとで少し後悔しました。本当は最初に「面白いね」と言いたかったのに、と。
「褒める」には勇気がいるけれど、「否定」や「指摘」は、なんだか安全な場所に立って言える気がする。この「減点方式」の染み付いた感覚が、今のネット上の空気をより重くさせている正体だと思うんです。
100の「いいね」より、1の「否定」が広がり続ける理由
よく「日本人は謙虚だ」と言われますが、裏を返せば、それは「目立ってはいけない」という強いプレッシャーでもあります。
誰かが褒められているのを見ると、どこかで「調子に乗っている」と冷めた目で見てしまう。自分が褒められたとしても、「いえ、そんなことは……」と全力で否定しなきゃいけない気がする。
そんな土壌があるから、SNSで誰かが誰かを叩いているのを見ると、つい「あぁ、やっぱり出る杭は打たれるんだな」と、妙な納得感を持ってしまうのかもしれません。100人に褒められても、たった1人に「それは違う」と鋭く突っ込まれただけで、その一言が頭から離れなくなるのは、私たちの心が弱いからじゃない。
この国で生きるための「防衛本能」みたいなものなのか、少なくとも私は、ポジティブよりネガティブのほうが強く残ってしまうことが多いです。
黙っておくほうが安全な空気
「もっと褒め合えばいいのに」と思う反面、いざ自分が何かを褒めようとすると、ふと指が止まります。 「そんなことで喜んで、意識が高いと思われないか」「誰かに反論されたらどうしよう」
結局、何もしないのが一番安全。誰の目にも止まらないのが正解。 そうやって、優しい言葉や称賛の声がどんどん心の内に閉じ込められて、表側には「鋭いツッコミ」や「冷ややかな否定」だけが残っていく。
今のSNSのトゲトゲしさは、私たちが長い時間をかけて作り上げてしまった「否定から入る文化」が、テクノロジーによって可視化されただけのことなのかもしれません。
【2】否定は増えたのではなく、ただ「効率」がいいだけ
ここで、見方をほんの少しだけ変えてみます。「最近はみんな攻撃的になった」と嘆くのは簡単ですが、実態はもっと残酷で、単に否定のほうが「コスパがいい」状態になっているだけなのかもしれません。
褒めるには「文脈」が要り、否定には「一言」で済む
以前、ある記事に対して「ここが良かった」と書こうとして、スマホのメモ帳で3分ほど言葉を探していました。でも、その直後に別の投稿で「それは違う」とだけ書かれたコメントが何百件も拡散されているのを見て、複雑な気持ちになったことがあります。称賛より、短い否定のほうがやっぱり広がってしまいます。
この言葉の「軽さ」が、スピードの速いSNSと最悪の相性で噛み合ってしまっている気がするんです。 深く考えずに投げられた短い否定の言葉が、時間をかけて紡がれた称賛の言葉をあっさりと消し去って拡散されていく。誰かが悪意を持って操作しているというより、この「手軽さ」に、私たちは無意識に乗っかってしまっているのではないでしょうか。
「過程」が消え、一瞬の「失敗」だけが切り取られる
もう一つ、今の空気を重くしているのは、物事の「途中」が見えなくなっていることです。 本来、どんな挑戦にも泥臭い試行錯誤があるはずなのに、スマホの画面に流れてくるのは、そのプロセスをバッサリ切り捨てた「結果」だけです。
昨日までの本人の努力や背景は、スクロールの速さに追いつけず、こぼれ落ちてしまう。 すると、残るのは「成功か、失敗か」という極端な二択だけ。ほんの一瞬の言い間違いや、たった一度の判断ミスが、その人の人格すべてであるかのように拡大解釈されてしまう。 そんな環境では、あえてリスクを取って「良いところ」を探すよりも、流れてきた失敗に対して「ダメだよね」とラベルを貼るほうが、ずっと楽で、安全に見えてしまいます。
安心感に逃げていないか
結局のところ、多くの人が否定の方向に流れてしまうのは、「一番目立たなくて済むから」かもしれません。 「日本人は和を重んじる」と言えば聞こえはいいですが、実際は「和から外れたやつを叩くことで、自分の安全を確認する」という側面も否定できません。
誰かが叩かれているときに、あえて逆らって「でも、ここは良かったよ」と言うのは、今の日本ではものすごく勇気がいります。下手をすれば、自分まで火の粉を浴びて、減点の対象になってしまう。 「加点」して目立つくらいなら、無難に「減点」の輪に加わっておく。
そうやって、一人ひとりが自分の身を守るために選んだ「小さな沈黙」や「小さな否定」が積み重なって、この息苦しい社会の空気を形作っているのだとしたら。 私たちは、叩く人の数に怯えているのではなく、実は「自分もいつか打たれる杭になるかもしれない」という、自分自身の影に怯えているだけなのかもしれません。
【3】「出る杭は打たれる」が当たり前になると、人は静かに足を止める
ここからは、このギスギスした空気が私たちの生活にどう影響しているのかを考えてみたいと思います。 「ネットの中だけの話でしょ」と笑い飛ばせればいいのですが、実際はもっと深く、私たちの現実の選択をじわじわと縛り付けている気がしてなりません。
叩かれる未来が見えると、指がとまる
人間、やっぱり「損」はしたくないものです。 SNSで誰かが袋叩きにされているのを見るたびに、私たちは無意識に自分の未来を重ねてしまいます。「もし、自分が新しいことを始めて失敗したら?」「もし、この発言を誰かに切り取られたら?」
その恐怖がリアルになればなるほど、人は「何もしないこと」を選びます。 目立たないように、余計な提案はせず、期待もされないように振る舞う。これは怠慢ではなく、この息苦しい社会を生き抜くための、悲しいほど合理的な「防衛」です。でも、みんながこの安全策を取り始めた場所からは、新しいアイデアも、ワクワクするような変化も、消えていってしまいます。
「見てくれている」という安心感がない場所で、誰が頑張れるだろう
挑戦を続けるには、相当なエネルギーが要ります。 そのガソリンになるのは、きっと「誰かが自分の試行錯誤を見てくれている」という実感ではないでしょうか。
数年前、ある本で「心理的安全性」という言葉を知りました。後で調べると、Googleの社内研究(Project Aristotle)でも、成果を出すチームの共通点として挙げられていたそうです。実際、私が以前いたチームでも、失敗を笑いに変えてくれる上司がいるときは、提案の数が明らかに増えていました。逆に、少しのミスで「それ見たことか」と足を引っ張られるような環境では、人は自然と手を抜くようになります。「どうせ叩かれるなら、ほどほどでいいや」という諦めが、組織や社会全体の活力を奪っていく。それは、目に見えないけれど、提案の数や挑戦の回数が先細りしていきます。
以前、ブレストの会議(アイデア出し)でルールを決めました。
・否定はしないこと
・意見がある場合は必ず代案を出すこと
そうすることでみんなが声を出しやすい雰囲気になり、若手のメンバーが言い淀むことがへり、どんどんとアイデアがでてくるようになりました。
打たれる前に、「出ない杭」が増えていく
「出る杭は打たれる」という言葉がありますが、今の日本で起きているのは、もっと切ない事態かもしれません。 杭が打たれる前に、そもそも「出るのをやめよう」と、土の中に潜ったままの杭がどんどん増えている。
経済が停滞しているとか、新しい価値が生まれないとか、難しい理由はたくさんあるでしょう。でも、その根っこにあるのは、こうした「挑戦することのリスク」が、あまりにも高くなりすぎてしまったことにある気がするんです。 問題は、声を荒らげて叩く人の数だけではありません。その裏で、「何かを表現すること」や「新しい一歩を踏み出すこと」を諦めてしまった人たちの数こそが、この国の明日を少しずつ暗くしているのではないでしょうか。
【4】問題は「褒める量」ではない。相手をどう「見ている」かだ
ここまで書くと、「じゃあ、とにかく何でも褒めればいいのか」と思われるかもしれません。でも、そこには少し落とし穴がある気がしています。 表面的な褒め言葉を並べても、どこか白々しく聞こえたり、えこひいきに見えたりして、かえって空気が冷めてしまうことがあるからです。
「すごい」という言葉が、逆に人を孤独にする
「すごいね」「さすが天才」。 一見ポジティブですが、実はこれ、言われた側からすると意外と「届いていない」ことが多いんです。 何がどう良かったのか、どんな苦労があったのか。そこをすっ飛ばして結果だけを「すごい」という箱に詰め込まれてしまうと、言葉が心の表面を滑っていくだけのような感覚になります。皮肉で馬鹿にされたように感じさせてしまう可能性もあります。
周りから見ても、何を基準に褒めているのかが分からないと、ただの「おべっか」や「身内ノリ」に見えてしまう。中身がぼやけたままの褒め言葉は、優しさのようでいて、実は相手のことを大して見ていない、残酷な言葉にもなり得るのです。
「才能」を褒められると、失敗が怖くなる
これ、私も経験があるのですが、「センスがあるね」とか「地頭がいいね」と褒められると、うれしい反面、妙なプレッシャーを感じませんか? 才能という「自分ではどうしようもない部分」を評価の軸にされると、次に失敗したとき「あ、自分には才能がなかったんだな」と突き落とされるのが怖くなる。
すると、せっかく褒められたのに、守りに入ってしまうんです。確実に評価されそうな無難な道を選び、新しい挑戦を避けるようになる。 褒めることは、その人の価値を確定させるためではなく、「次もやってみよう」と思える勇気を手渡すためにあるはずなのに、これでは本末転倒です。
褒めるとは、評価ではなく「観察」の結果を伝えること
結局、私たちが本当に求めているのは、上から目線の「評価」ではなく、等身大の「観察」なんじゃないでしょうか。
「資料がきれいだね」と言うよりも、「ここの図解が分かりやすかったから、会議がスムーズに進んだよ」と伝える。 「頑張ったね」と言うよりも、「昨日、遅くまで何度も書き直していたのを見ていたよ」と伝える。
そこには派手な枕詞はいりません。ただ、あなたが何を見て、何を感じたのか。その事実をそのまま渡すだけでいい。 自分の行動をちゃんと見ていてくれる人がいる。その実感が持てたとき、人は初めて「次の一歩」を踏み出す勇気が湧いてくるのだと思います。
【5】褒め上手じゃなくていい。言葉のハードルを下げるコツ
ここまで読んで、「理屈はわかったけれど、自分にはキャラじゃない」と感じる方も多いと思います。私もそうです。急に人を褒め始めるなんて、なんだか裏がありそうで自分でもソワソワしてしまいます。
でも、別に「褒め上手な人」という新しい人格を目指さなくていいんだと思います。大切なのは、気の利いたセリフを吐くことではなく、リスクを最小限に抑えながら、誰かの支えになる「こっそりとしたやり方」を知っておくことです。
感情を込める前に、ただ「事実」を置いてみる
多くの人が褒めるのをためらうのは、「自分の感情を乗せなきゃいけない」と思うからではないでしょうか。でも、それだとハードルが高すぎます。おすすめしたいのは、あなたの感想ではなく、ただ思ったことを口に出して共有することです。
「すごいね」と褒める代わりに、「さっき、あの資料送ってたのを見たよ」と、ただ事実を口にするだけ。そこに「助かるよ」といった自分の気持ちを無理に乗せなくてもいい。ただ「見ていたこと」を伝えるだけで、受け取った相手は「あ、自分の行動、ちゃんと見てもらえてるんだな」と、それだけで十分救われるからです。
言葉の完成度は、60点くらいでいい。むしろ作られた言葉より、ボソッと思ったことをためらわずに伝えるくらいのほうが「本当に見ていた感」が伝わったりします。それくらいの感覚なら、少しだけやってみようと思いませんか。
最初は「こっそり」伝えるだけで十分
わざわざみんなの前で、大声を上げて称賛する必要もありません。同調圧力が強い場所では、公の場での褒め言葉は時に「誰かとの比較」を生んでしまい、余計な摩擦を生むことさえあります。
だからこそ、まずは自分と相手だけの場所から始めてみる。
・終わったあとのチャットで「さっきの、助かりました」と送る。
・すれ違いざまに「お疲れ様」と声をかける。
誰の目にも触れない小さなやり取り。これなら誰にも邪魔されません。SNSでも同じです。いきなり「これが好きだ!」と叫ぶのが怖ければ、良い投稿をシェアして「この視点、参考になりました」と一言添えるだけでいい。自分から大きな旗を振らなくても、誰かが放った「肯定の光」を少しだけ広げる手伝いをする。それだけで、否定の連鎖を止めるための、立派な一歩になるはずです。
ダメを、ほんの少し言い換えてみる
もちろん、否定が染み付いた社会で、すべてを肯定するのは不可能です。ダメなものはダメと言わなきゃいけない場面も当然あります。ただ、そのときに「ここがダメだ」という一点突破の否定で終わらせず、ほんの少しだけ視点をずらしてみる。
「すごく良かったけど、ここはもっとこうすれば良くなるのに、惜しいね」 「ここまでできているからこそ、この一箇所が目立っちゃうね」
否定をゼロにするのではなく、そのまわりにある「できていること」をセットで見せる。完璧な褒め言葉なんて見つける必要はありません。ただ今日、隣で頑張っている人に「私は見ているよ」というサインを送ってみる。その一瞬の関わりが、誰かの折れそうな心を繋ぎ止める、一番の薬になるのかもしれません。
編集後記
この記事を書くきっかけは、先の選挙期間中の何とも言えない息苦しさでした。 誰かを下げることで、自分が正しい場所にいると証明しようとする言葉の刃。確かにそれは鋭く、多くの人を動かします。でも、そのあとに残る冷え冷えとした空気感に、私はどうしても馴染めませんでした。
否定は強い。でも、強いことと、誰かの心に寄り添うことは、きっと別物です。
「ここがダメだ」と叫ぶ声に溢れる世界で、「ここは素敵だね」と囁く声は、あまりに弱々しく聞こえるかもしれません。それでも、私はその弱々しい、けれど確かな温もりを持った言葉のほうを信じていたい。
自分の周り、まずは1mの範囲からやってみることで、それが指数関数的に増えていくといいなと思います。
きっとそれは周囲5m、10mと広がっていっていくはずです。
参照・参考サイト
Google re:Work 日本語版|効果的なチームとは何か(Project Aristotle)
https://rework.withgoogle.com/jp/guides/understanding-team-effectiveness/
総務省|令和5年版 情報通信白書
https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r05/index.html
内閣府|令和5年版 経済財政白書
https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je23/index.html
日本心理学会|バイアスの心理学に関する解説記事
https://psych.or.jp/publication/world110/pw21/


コメント