国譲り神話の舞台は出雲なのに、そこで重要な役割を果たす武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、なぜ遠く離れた鹿島と結びついているのでしょうか。
この疑問が、私にとって国譲りを考える出発点でした。
当初は、国譲りが実際にどこで起きたのかという問題に関心がありました。
しかし、考えていくうちに、別の疑問が生まれました。
なぜ大国主神(おおくにぬしのかみ)が国を造ったことを描きながら、その統治を天孫へ「譲る」という物語になっているのでしょうか。
しかも、国を譲った大国主神には宮が語られ、その神への信仰は後世にも続いています。
国譲りには、古くから各地に存在した神々の権威と、新たな政治的な統治との関係が反映されているのかもしれません。
ただし、神話に描かれた出来事が、そのまま歴史上の政治的な交渉だったとは限りません。
『古事記』『日本書紀』や出雲に関わる史料を読み比べながら、国譲りという物語が何を説明しようとしているのかを考えてみたいと思います。

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この記事の内容を、音声で聴きやすい形に再構成しています。 大国主神はなぜ国を譲ったのか、出雲神話と古代日本の統治・祭祀の関係について、移動中や作業中にも聴いていただけます。
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【1】国譲りとは何か|大国主神はなぜ国を譲ったのか

国譲りとは、大国主神(おおくにぬしのかみ)が治めていた葦原中国(あしはらのなかつくに)を、高天原の神々の求めに応じて天孫側へ譲る物語です。
『古事記』では、使者の派遣から始まり、承諾と抵抗を経て、大国主神が国譲りを受け入れるまでが描かれています。
国譲りに登場する神々とそれぞれの役割
国譲りには、高天原の神々と、地上を治める大国主神、その子どもたちが登場します。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は、地上世界である葦原中国を、天照大御神の子孫に治めさせようとします。
一方、大国主神は国造りを進めてきた神であり、国譲りを求められる立場にあります。
高天原から派遣される武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、国譲りを実現するための使者です。
大国主神の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)は、それぞれ異なる対応を示します。
高天原からの国譲りの要求と事代主神の承諾
『古事記』では、高天原の神々が葦原中国を治めるため、使者を派遣します。
最初に遣わされた天菩比神(あめのほひのかみ)や、続く天若日子(あめのわかひこ)は、その役目を果たせませんでした。
そこで派遣されたのが、武甕槌神と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)です。
武甕槌神は出雲の伊那佐の小浜に降り立ち、大国主神に国を譲るよう迫ります。
これに対して大国主神は、自分では答えず、子の事代主神に尋ねるよう求めます。
事代主神は国譲りを承諾し、姿を隠しました。
建御名方神の抵抗から大国主神の国譲りまで
しかし、もう一人の子である建御名方神は、国譲りに抵抗します。
武甕槌神に力比べを挑みますが敗れ、科野国の諏訪まで逃れた末に、国譲りを妨げないと誓います。
二柱の子が承諾したことを受け、大国主神も高天原の要求を受け入れました。
ただし、大国主神は自らのために宮を設けることを求めています。
『古事記』の国譲りは、単に大国主神が進んで国を譲った物語ではありません。
高天原からの要求に加え、武甕槌神による威圧や建御名方神の敗北があり、その末に国譲りが成立するのです。
【2】大国主神の国造りと、天孫に譲られる葦原中国
大国主神は、自ら国造りを進めてきた神です。
それでは、国を造った神と、その後に国を治める神は、どのような関係にあるのでしょうか。
「国造り」と「国譲り」の違いから考えてみます。
大国主神による国造りはどのように語られているのか
『古事記』では、大国主神が少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と協力し、国を造り固めたと語られています。
しかし、少名毘古那神は途中で常世国(とこよのくに)へ去ってしまいます。
国造りを続けられるか悩む大国主神の前に、今度は海を照らしながら別の神が現れました。
その神は、自分を祀れば国造りに協力すると告げ、御諸山(みもろやま)に祀るよう求めます。
この神は、後に大物主神(おおものぬしのかみ)とされる神です。
『古事記』は国造りの具体的な過程を詳しく記していません。
それでも、大国主神の国造りが、ほかの神々との協力や祭祀と結びつけて語られていることはわかります。
国譲りの舞台は出雲、譲られるのは葦原中国
国譲りの交渉は出雲を舞台に行われますが、譲られる対象は出雲という一地域ではありません。
高天原が求めているのは、大国主神が治める葦原中国の統治権です。
『古事記』では、大国主神による国造りが語られた後、その国を治める立場が天孫側へ移る経緯が描かれています。
『日本書紀』の「顕露の事」と「幽事」――政治と神事の区別
『日本書紀』第九段の一書第2には、国譲りに際して神々の役割を分ける描写があります。
この異伝では、大国主神にあたる大己貴神(おおあなむちのかみ)に対し、目に見える世界の事柄である「顕露の事」は皇孫が治め、神に関わる事柄は大己貴神が治めるよう告げられます。
大己貴神もこれを受け入れ、自らは「幽事」を治めると述べています。
この描写では、国の統治を譲ることと、神としての役割を失うことは同じではありません。
ただし、「顕露の事」と「幽事」を現代の政治と宗教の分離にそのまま当てはめることはできません。
また、これは『日本書紀』の特定の異伝に見られる説明であり、すべての国譲り伝承に共通するものでもありません。
【3】国譲りの後に大国主神の宮が語られるのはなぜか

国譲りの物語には、統治権の移譲だけでなく、大国主神のために宮を設けるという描写があります。
この宮には、どのような意味があるのでしょうか。
大国主神は国譲りに際して何を求めたのか
『古事記』では、大国主神は国譲りに際し、地底の岩に届くほど太い柱を立て、高天原に届くほど高い宮を求めます。
その宮が設けられるなら、自らは遠くに隠れると述べています。
その後、出雲の多芸志の小浜に宮が造られたと語られています。
宮の建立は権威の承認か、退去の条件・鎮祭か
一つは、宮の建立を大国主神への敬意や、従来の権威の承認と捉える見方です。
統治する立場は天孫側へ移っても、国造りを担った神の権威は認められたと解釈できます。
しかし、大国主神が宮を求めると同時に、自らは隠れると述べている点も見逃せません。
この発言を重視すれば、宮は統治の場から退くための条件、あるいは退去の代償とも考えられます。
さらに、**鎮祭(ちんさい)**という解釈もあります。
鎮祭とは、神を祀ることで、その力を鎮め、安定した状態を保とうとすることです。
この見方では、宮は旧来の権威を保障する施設というより、神を祀り鎮めるための場所となります。
大国主神のために宮が設けられたという描写だけでは、従来の権威の承認だったのか、退去の条件や鎮祭だったのかを決めることはできません。
神の祭祀が続くことは、政治的な権限の維持を意味するのか
大国主神の宮の伝承は、現在の出雲大社の起源とも結びつけられています。
大国主神は今も出雲大社の祭神として祀られており、歴史上、出雲の神々の祭祀には、出雲国造(いずものくにのみやつこ)が関わってきました。
こうした祭祀の継続を見ると、国譲りの後も出雲の古い権威が守られたと考えたくなります。
しかし、神への信仰が続いていることと、その神を祀る勢力が政治的な権限を維持していたことは同じではありません。
祭祀を担う者の立場や政治的な権限は、時代とともに変化していた可能性があります。
また、後世に確認できる祭祀の仕組みを、そのまま神話の時代に遡らせることもできません。
大国主神の祭祀が続いたことは確認できても、それが古代の政治的な取り決めによって保障された結果なのかは、別に検討する必要があります。
【4】なぜ出雲の国譲りに鹿島・香取の神々が結びつくのか
国譲りの舞台は出雲ですが、そこで重要な役割を果たす神々は、東国の鹿島や香取と結びついています。
この関係は、いつ頃から史料に現れるのでしょうか。
武甕槌神はいつから鹿島の神と結びついたのか
武甕槌神は、現在の茨城県にある鹿島神宮の祭神として知られています。
ただし、『古事記』『日本書紀』の国譲りの場面では、武甕槌神が鹿島の神であるとは明記されていません。
8世紀に編纂された『常陸国風土記』の香島郡条には、鹿島の神が高天原から降ったとする伝承があります。
ただし、そこに武甕槌神という神名は記されていません。
武甕槌神を常陸国の鹿島の神と明記しているのは、807年成立の『古語拾遺』です。
このため、武甕槌神と鹿島の結びつきが史料上確認できる時期と、その信仰が実際に始まった時期は区別する必要があります。
経津主神の国譲りでの役割と香取との関係
一方、現在の千葉県にある香取神宮では、経津主神(ふつぬしのかみ)が祀られています。
『古事記』では、武甕槌神と天鳥船神が国譲りの使者として派遣され、経津主神は登場しません。
これに対し、『日本書紀』の本文では、経津主神と武甕槌神が葦原中国の平定を命じられています。
『古語拾遺』では、経津主神を下総国の香取の神、武甕槌神を常陸国の鹿島の神と明記しています。
同じ国譲りでも、史料によって登場する神々の組み合わせが異なり、東国の神々との関係も一様ではありません。
東国の神々と国譲りを結ぶ史料から何がわかるのか
では、鹿島や香取の神々が国譲りに関わることは、出雲と東国の間に政治的な関係があったことを示しているのでしょうか。
神々の配役には、中央の氏族や地域の祭祀が関係していた可能性があります。
しかし、後世の史料に見える神々の結びつきだけでは、国譲りの伝承が形成された当初から同じ関係があったとは判断できません。
私が当初考えたように、国譲りの本来の舞台が常陸や日高見だったとするには、さらに別の根拠が必要です。
むしろ、出雲を舞台とする物語に、なぜ東国と結びつく神々が配置されたのかという疑問が残ります。
【5】記紀と出雲系史料は、国譲りをどう描いているのか

国譲りは、『古事記』や『日本書紀』だけでなく、出雲に関わる史料にも異なる形で語られています。
国を譲る経緯や神々の役割は、史料によってどのように違うのでしょうか。
『古事記』と『日本書紀』で異なる大国主神の応答と神々の配役
『古事記』では、事代主神の承諾と建御名方神の抵抗を経て、大国主神が国譲りを受け入れます。
一方、『日本書紀』には複数の異伝があり、大己貴神の応答や使者となる神々の配役が異なります。
第九段の一書第2では、大己貴神が当初は国譲りに応じず、その後、条件を伴う形で応答します。
『古事記』が子神たちの承諾や抵抗を描くのに対し、この異伝では大己貴神自身の判断と、国譲り後の役割が問題になっています。
『出雲国風土記』が描く国土の移譲と、記紀との違い
『出雲国風土記』の母理郷(もりのさと)条では、大穴持命(おおなもちのみこと)が自ら造り治めた国を皇孫に譲る一方、出雲国は自分が鎮まる国として残すと語っています。
そこには、『古事記』に見られる使者の派遣や建御名方神の抵抗は描かれていません。
ただし、母理郷条の国土を譲るという記述を、記紀と同じ国譲り伝承として直接結びつけてよいかは検討が必要です。
史料の違いだけで、どちらが古い伝承を残しているのかも判断できません。
『出雲国造神賀詞』が語る神々の配置と皇孫の守護
『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』は、出雲国造が朝廷に奏上した祝詞です。
この祝詞では、大穴持命が自らの和魂(にぎみたま)を大御和(おおみわ)に鎮座させるなど、出雲に関わる神々を大和の各地に配置し、皇孫を守護する存在として語っています。
国譲りの経緯を詳しく述べるよりも、出雲の祭祀者の立場から神々と皇孫の関係が語られている点に、この史料の特徴があります。
8世紀の王権観は国譲りの語りに影響したのか
四つの史料における国土移譲の描写と、神々の役割を比較すると、次のようになります。
| 史料 | 国土移譲の描写 | 神々の応答・役割 | 祭祀との関係 |
|---|---|---|---|
| 『古事記』 | 高天原が国譲りを要求 | 事代主神は承諾、建御名方神は抵抗 | 大国主神が宮を求める |
| 『日本書紀』 | 本文と異伝で展開が異なる | 一書第2では大己貴神が条件付きで応答 | 一書第2に「顕露の事」と「幽事」の区別 |
| 『出雲国風土記』 | 大穴持命が国土を皇孫に譲る | 母理郷条では使者との交渉を描かない | 出雲を自らが鎮まる国とする |
| 『出雲国造神賀詞』 | 交渉の経緯より、神々の配置を重視 | 大穴持命が神々を鎮座させる | 神々による皇孫の守護を語る |
記紀では天孫側へ統治が移る経緯が語られる一方、出雲系史料では、国を譲った神と出雲の関係や、皇孫を守護する神々の役割が目立ちます。
『古事記』は712年、『日本書紀』は720年に成立した、王権のもとで編纂された史料です。
これに対し、『出雲国風土記』は朝廷の命で編まれた地誌ですが、出雲国造が編纂に関わったとされ、出雲側の立場が反映された可能性があります。
『出雲国造神賀詞』も、出雲の祭祀者が奏上する祝詞であり、出雲側の立場から語られた史料です。
こうした成立事情や語り手の立場の違いが、神々の描き方に影響した可能性があります。
特に、出雲の神々を天孫の統治や皇孫の守護に結びつけることは、8世紀の王権の正統性を説明するうえで意味を持ったのかもしれません。
しかし、史料の違いだけで編纂者の意図を確定することはできません。
また、8世紀に語られた政治秩序が、それ以前の歴史をそのまま伝えているとも限りません。
【6】国譲り神話から古代日本の国家形成をどこまで読み取れるのか

史料の中では、出雲の神々が天孫の統治や皇孫の守護と結びつけて語られています。
私は当初、こうした物語の背後に、各地の勢力がヤマトの統治を受け入れていった歴史があるのではないかと考えていました。
では、その見方を出雲の考古学資料からどこまで支えられるのでしょうか。
出雲の墳墓文化と地域間交流から確認できること
古代の出雲には、独自の文化や有力者の存在を示す考古学資料が残されています。
荒神谷遺跡では、大量の銅剣をはじめ、銅矛や銅鐸がまとまって埋納されていました。
加茂岩倉遺跡でも多数の銅鐸が発見されており、弥生時代の出雲に特徴的な青銅器の埋納が行われていたことがわかります。
ただし、青銅器の埋納がどのような集団によって、何を目的として行われたのかには、なお解釈の余地があります。
一方、西谷墳墓群には、大規模な墳丘墓が築かれています。
これらは、弥生時代後期の出雲に有力者が存在し、周辺地域との交流もあったことを考える資料です。
こうした遺跡からは、ヤマト王権による広域的な統合以前の出雲にも、独自の文化や地域社会が形成されていた様子がうかがえます。
しかし、そのことだけで、ヤマトとの政治的な支配関係まで判断することはできません。
国譲りの物語と歴史上の政治的統合は結びつくのか
出雲に有力な地域勢力が存在したことは、国譲り神話の歴史的な背景を考える手がかりになります。
しかし、考古学資料に見える地域社会の変化を、神話の出来事と直接対応させるには問題があります。
第一に、遺跡が示す時代と、国譲り神話が文献に記された時代には隔たりがあります。
異なる年代の資料を結びつけるには、その間の政治的な変化を説明できる根拠が必要です。
第二に、墳墓の規模や文化の共通性から、地域間の交流や有力者の存在を考えることはできても、具体的な服属関係や交渉の内容まではわかりません。
『古事記』には承諾だけでなく、抵抗や武力による威圧も描かれています。
実際の政治的な統合にも、合意と抵抗の双方があった可能性は考えられますが、神話の場面を特定の歴史的事件とみなす根拠は不足しています。
歴史的な統合の反映と後世の正統化をどう考えるか
国譲り全体については、歴史的な統合の反映、神の鎮祭、後世の王権による正統化という三つの見方が考えられます。
第一に、地域勢力がヤマトの統治に組み込まれていく過程を反映したという見方です。
出雲に独自の有力者や文化が存在したことは、この解釈を考える背景になりますが、統合の時期や方法はわかりません。
第二に、大国主神の宮を、従来の権威の保障ではなく、神を鎮めるためのものと捉える見方です。
この解釈では、神を祀ることで国譲り後の秩序を保つという、神話の中の信仰上の意味に注目します。
そのため、実際に政治交渉が行われたことを前提とせずに、物語を説明できます。
第三に、後世の王権が自らの統治を正当化するために、国譲りを語ったという見方です。
史料の違いはその可能性を考える材料になりますが、編纂の意図や伝承の成立過程までは確定できません。
三つの解釈は必ずしも対立するものではありません。
古い地域勢力との関係を反映した伝承が、後世の王権や祭祀者の立場から再編された可能性もあります。
ただし、それぞれの要素がいつ成立したのかは不明です。
国譲りについて言えること・保留すべきこと・仮説の見直し
私は当初、各地の勢力がヤマトを政治的な上位者として認めながら、従来の神々や祭祀を存続させたことが、国譲り神話に反映されているのではないかと考えていました。
国譲り神話が、古い神々の権威を天孫の統治と結びつけて説明しているという見方には、史料上の根拠があります。
しかし、それが実際の地域勢力の合意や、政治的な権限の保障を反映しているとまでは言えません。
考古学資料から地域社会の存在や交流は確認できても、国譲りに対応する具体的な政治交渉は確認できないためです。
また、古い神への信仰が続いたとしても、祭祀を担う勢力やその政治的な立場が変化していた可能性は残ります。
そのため、国譲りを政治的な権威と祭祀的な権威の関係を説明する物語と捉える仮説は維持できますが、実際の国家形成の過程を説明する仮説としては、まだ根拠が不足しています。
今後、地域勢力とヤマト王権の関係を示す同時代の資料が得られれば、国譲りと実際の政治的な統合との関係を改めて検討できます。
一方、出雲で祭祀を担った勢力の交代や、従来の政治的な権限が失われたことを示す資料が確認されれば、古い勢力が祭祀と権威を維持したという当初の仮説は、さらに修正する必要があります。
現時点では、国譲りを平和的な合意の記録とも、征服を正当化するためだけの創作とも決めきれません。
実際の政治的な変化と、後世にその変化を説明しようとした物語の両方を視野に入れて考える余地が残っています。
まとめ|国譲り神話は何を語っているのか
『古事記』の国譲りは、大国主神が国造りを進めた葦原中国の統治を、高天原側へ譲る物語です。
そこには事代主神の承諾だけでなく、建御名方神の抵抗も描かれており、平和的な合意の物語としてだけ読むことはできません。
また、出雲を舞台とする物語に、鹿島・香取と結びつく神々が登場する理由も、十分には明らかになっていません。
史料によって神々の配役や国譲りの描き方が異なることから、伝承が成立し、再編されてきた過程も考える必要があります。
こうした検討を経て、私が現時点で重視したいのは、国譲りが、先に国を造った神を否定せず、その祭祀を残したうえで、天孫による統治を正当なものとして説明しているという点です。
宮の建立が権威の承認だったのか、退去の条件や鎮祭だったのかは、決められません。
ただ、いずれの読み方でも、大国主神が国を造った神として語られ、統治権の移譲と祭祀が結びつけられていることは、史料から確認できます。
当初は、各地の勢力がヤマトの統治を受け入れながら、従来の神々や祭祀を存続させたことが、国譲りに反映されているのではないかと考えていました。
しかし、史料を比較すると、実際の統合過程を伝えた可能性だけでなく、後世の王権や祭祀者が過去の関係を説明し直した可能性も考えられます。
考古学資料から古代出雲の有力者や地域間交流の存在は確認できても、国譲りに対応する政治交渉や、旧来の勢力の権限が保障された事実までは確認できません。
今後、出雲で祭祀を担った勢力の交代や政治的な権限の喪失を示す資料が得られれば、古い勢力が祭祀や権威を維持したという当初の見方も修正する必要があります。
国譲りがどこで起きたのかという疑問から始まった考察は、なぜ国を造った神から統治権を譲り受ける物語が語られたのかという問いへ移りました。
編集後記
国譲りについて考え始めたきっかけは、出雲を舞台とする神話に、遠く離れた鹿島と結びつく武甕槌神が登場することへの疑問でした。
最初は、国譲りの本当の舞台が別の場所にあったのではないかと考えていました。
しかし、史料を読み比べ、考えを整理するうちに、当初の疑問だけでは捉えきれない問題があると感じるようになりました。
鹿島と出雲の関係については、今もわからないことが残っています。
参照・参考サイト
國學院大學 古典文化学事業|古事記ビューアー「葦原中国平定⑥」
https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/kojiki/葦原中国平定⑥/
國學院大學 古典文化学事業|古事記ビューアー「葦原中国平定⑦」
https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/kojiki/葦原中国平定⑦/
島根県立古代出雲歴史博物館|古事記編纂1300年企画展「神々のすがた」~古代から水木しげるまで~
https://www.izm.ed.jp/cms/cms.php?id=167&mode=v
國學院大學デジタルミュージアム|神道・神社史料集成(古代) 香取神宮
https://d-museum.kokugakuin.ac.jp/jinja/190101_53135/
國學院大學デジタルミュージアム|神道・神社史料集成(古代) 杵築大社
https://d-museum.kokugakuin.ac.jp/jinja/410102_53247/
島根県|加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡
https://www1.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/shiseki/shisekidesu/shiseki07.html


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