彼岸はすぐそばにある――自分を保つために引く境界線は、どこまで確かなのか

essay13_higan-boundary_MV エッセイ

昔から、当たり前だと思っていることを、一度疑ってみる癖があった。

今見えているものは、本当にそのままの姿なのか。
自分で決断しているつもりでも、すべて自覚しているのかどうか。

そんなことを考えていると、結局「自分」とは何なのかという疑問に行き着く。

そうした疑問を抱えていたからか、村上春樹の『ノルウェイの森』にある一節が、ずっと頭の中にあった。

それは、「死は生の対極ではなく、その一部として存在している」という言葉だ。

生きている今も、死はすぐそばにある。

「こちら側」と「あちら側」。

はっきり分けているつもりでも、そこまで離れたものではないのかもしれない。

そんなことを考えているうちに、生と死以外にも似たような境界線があると思うようになった。

たとえば、誰かの許されない行為を知って、「自分ならそんなことはしない」と思うとき。

私もそう思う。
ただ、自分が経験したことのない状況で、何を考え、どう判断するのかまでは分からない。

それでも、自分と「あちら側」との間には線を引いている。

なぜ、そこに線を引こうとするのだろう。
そして、自分の意思で引いたはずの線を、どこまで保っていられるのだろうか。

考えているうちに、また「自分とは何なのか」という、昔からの疑問に戻ってくる。

【1】生と死は、本当に対極にあるものなのか

生きている自分にとって、死は近くにはない。

だから、どうしても先のこととして考えてしまう。

でも、まだ訪れていないというだけで、自分から遠く離れたものだと言えるのだろうか。

死は、生のすぐそばに存在している

村上春樹の『ノルウェイの森』に、こんな一節がある。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

物語の主人公「僕」は、親しい友人であるキズキの死を経験したことで、それまでの生と死の捉え方を変えていく。

それまでは、生はこちら側にあり、死はあちら側にある。
いつか死ぬことは分かっていても、生きている間は自分と切り離されたものとして考えていた。

ところが、死は生きている自分とも無関係ではないことに気づく。

私が引っかかったのも、たぶんそこだった。

生きていることと死んでいることは、確かに違う。
その違いをなくして考えることはできない。

ただ、生きている今も、死の可能性がなくなったわけではない。

それは何十年も先かもしれないし、明日かもしれない。

普段はそんなことを意識せずに生活している。
むしろ、そのほうが自然だと思う。

けれど、普段考えていないからといって、死が遠くへ行ってしまうわけではない。

生と死は違うものだ。
でも、完全に切り離されたものとして考えると、何かが違うように感じる。

私には、この言葉がずっと気になっていた。

「あちら側」は、本当に自分と無関係なのか

生と死のことを考えているうちに、ほかにも似たような境界線があるのではないかと思うようになった。

たとえば、誰かが許されない行為をしたと知ったとき。

「どうしてそんなことができるのだろう」

そう思うし、自分ならそんなことはしないとも考える。

実際にその行為をした人と、していない自分は違う。

ただ、ここで少し気になることがある。

自分には理解できないと思うことと、自分にはまったく関係のないことだと言い切るのは、同じなのだろうか。

今の自分なら、決してそんなことはしないと思う。

けれど、それは今までの経験や、自分が置かれている状況をもとにした判断でもある。

経験したことのない状況に置かれたとき、何を考え、どう判断するのか。
そこまで自分のことを知っているわけではない。

もちろん、だから誰もが同じ行為をするという話ではないし、正当化したいわけでもない。

ただ、自分とは無関係だと思っているものが、本当にそうなのかという疑問が残る。

生と死の関係と、人が何かをするかしないかという判断は、そもそも別の話だ。
同じ仕組みで考えられるものではない。

それでも、私にはどこか似たものを感じる。

「こちら側」と「あちら側」。

その違いは確かにある。
けれど、違うというだけで、あちら側にあるものが自分と完全に切り離されているとは限らない。

だとしたら、なぜ、そこにはっきりとした線を引こうとするのだろう。

【2】「自分はそうならない」という線は、何を守っているのか

「自分ならそんなことはしない」。

そう思うとき、何を基準に線を引いているのか。

倫理的な善悪だけでなく、「どういう人間であるか」という認識も、そこに関わっている気がする。

「これはダメだ」と判断するとき、何を分けているのか

「そんなことはしてはいけない」と「自分だったらそんなことはしない」。

似ているけれど、少し違う。

前者は、その行為に対する判断。
誰かを傷つける行為なら、相手を傷つけてはいけないという考えがある。

でも、後者にはもう少し別のものが含まれている気がする。

「自分はそういうことをする人間ではない」。

そんな、自分自身についての認識だ。

たとえば、誰かに腹を立てたとしても、相手を傷つけるようなことはしないと決めている場合がある。

腹が立つことと、その怒りを行動に移すことは違う。

どんな感情が生まれるかは、必ずしも選べない。
けれど、その感情のままに行動するかどうかは、また別の話。

「自分はそんなことをしない」という言葉には、心の中に生じる気持ちと、実際に取る行動を分ける働きもあるのかもしれない。

もちろん、相手を傷つけたくないから、そうしないということもある。

他者のためにどう行動するかという判断と、どういう人間でありたいかという認識。

この二つは重なることもあるけれど、どこか違うものに思える。

境界線を引くのは、自分が自分であり続けるためなのか

たとえば、「自分は人を裏切らない」と考えている人がいるとします。

誰かとの約束を破ったほうが、都合がいい。
そんな場面でも、その人は約束を守るかもしれない。

得をしたいという気持ちがないわけではない。
約束を破るという選択肢が、まったく頭に浮かばないわけでもない。

それでも、そうしないと決める。

約束を守れば、相手の信頼を損なわずに済む。
それはもちろん、相手との関係において意味のあることだ。

ただ、その人にとって「人を裏切らない」ということが、一つの価値観になっているとしたらどうだろう。

約束を守ることは、相手との信頼関係だけでなく、「自分は人を裏切らない人間だ」という認識にも関わってくる。

ここで考えている「自分を守る」とは、損をしないようにすることでも、危険から身を守ることでもない。

「自分はこういう人間だ」という認識を保つこと。

昨日の自分と今日の自分。

考えてみれば、毎日まったく同じことを考えているわけではない。
経験を重ねれば、考え方が少しずつ変わることもある。

それでも、昨日から続く同じ人間だと感じている。

その感覚は、いったい何によって保たれているのだろう。

何を大切にするのか。
何を許せないのか。
何をするのか。
何をしないのか。

そうやって一つひとつ判断することが、どういう人間なのかを確かめることにもなっている気がする。

もし、絶対にしないと思っていたことを、実際にしてしまったら。

その行為について反省することはできるだろう。
けれど、それとは別に、「そんなことをしない人間だ」と信じていた、それまでの認識を見直すことにもなるのではないか。

信じていたことが、少し揺らいでしまう。

そんなことを考えているうちに、一つの仮説が浮かんできた。

人は、自分が自分であり続けるためにも、自分の価値観に反するものとの間に線を引いているのではないか。

心の中には、いろいろな感情や欲求がある。
そのすべてをなくすことはできない。

だからこそ、「自分はこうする」「これはしない」と決めることが、どういう人間なのかを確かめることにもなるのかもしれない。

もちろん、誰もがそのために境界線を引いているとは思わない。

ただ、私には、自分で引いた線が、自己認識を支えているという考えが、少ししっくりくる。

そうだとすると、もう一つ気になることがある。

自分で引いたはずの線を、どこまで意思のままに保っていられるのだろうか。

【3】意識的に線を引けば、外からの影響も防げるのか

自分で引いた線は、外から入ってくる情報に対しても働くのか。

「これはダメだ」と思えば、その考えを拒否することはできる。

でも、受け取った情報がそのあとどう扱われるのか。
そこまで自分の意思で決められるのかは、少し疑問が残る。

「これはダメだ」と思ったあとに、何が残るのか

たとえば、誰かが許されない行為をしたと知ったとき。

「そんなことはしてはいけない」

そう思って、その行為と自分との間に線を引く。

けれど、知ってしまったことを、知らなかったことにはできない。

それまで知らなかった行為を知り、考えたことのなかったことについて考える。
たとえそれはダメだと思ったとしても、その情報に触れる前と後では、無意識下になにかした影響があるかもしれない。

こういうことを考えるとき、思い出す言葉がある。

哲学者ニーチェの『善悪の彼岸』にある一節

深淵をのぞく時、深淵もまたおまえをのぞき返している。

怪物と闘う者が、自らも怪物にならないよう注意すべきだという言葉に続く一節である。

いわゆる、ミイラ取りがミイラになるというあれだ。

もちろん、ニーチェが無意識の情報処理について語っているわけではない。

ただ、何かを見つめているとき、こちらもまた、その対象と無関係ではいられない。

私には、そんなことを考えさせる言葉だった。

だからといって、許されない行為を知れば、自分も同じことをするという話ではない。

気になっているのは、行動をまねるかどうかではなく、その情報に触れたことが、あとになって自分の判断に関わってくる可能性だ。

知ったときには、はっきりと否定していた。

でも、そのとき感じたことや考えたことが、あとになってどう働くのかまでは分からない。

意識の上では拒否したものが、自分の中ではどのように扱われているのだろう。

無意識の働きは、どこまで自分の判断に関わるのか

自分が何を考えているのかは、ある程度分かる。

でも、頭の中で起きていることを、すべて自覚しているわけではない。

ここでいう「無意識」は、本人が十分に自覚していないところで行われる情報処理のことだ。

心の奥にもう一人の自分がいるという話ではないし、経験したことがすべて無意識に保存されると考えているわけでもない。

私が気になっているのは、一度は意識して受け取った情報が、そのあと自分の感情や判断にどう関わるのか、ということだ。

そもそも、意識していないところでは、どの程度の情報が処理されているのだろう。

調べてみると、意識にのぼらない刺激でも、ある程度の情報処理が行われることは神経科学でも研究されている。
ただ、どこまで処理されるかは、刺激の種類や注意の向け方によって違うようだ。

何かを良い、悪いと判断するときも、意識して考えたことだけが関わっているとは限らない。

自動的に生じる評価と、意識的に行う評価が、互いの変化に関わる場合もあるという研究がある。

こうしたことを知ると、自分で意識していることだけが、頭の中で起きていることのすべてではないのだと改めて思う。

ただ、これで最初の疑問に答えが出たわけではない。

意識にのぼらなかった情報と、一度意識したうえで拒否した情報は違う。
自動的に生じる評価も、すべてが無意識というわけではない。

だから、拒否した情報が無意識のうちに倫理観を変えるとまでは言えない。

そこは、まだ分からない。

それでも気になるのは、意識して下した判断と、その判断に関わる情報処理をすべて自覚していることは、同じではないという点だ。

自分では「これはダメだ」と、はっきり判断している。

けれど、その出来事があとになってどんな形で思い出されるのか。
何かを評価するときに、どう関わってくるのか。

その一つひとつを、意識して確かめることは難しい。

もちろん、考えを振り返ったり、自分の意思で判断を修正したりすることもできる。

無意識的な情報処理が、勝手にすべてを決めているわけではない。

ただ、意識的に「これはしない」と線を引いたからといって、その外側に置いたものからの影響まで、完全に防げるとは限らないのかもしれない。

もし、以前は「これはダメだ」と思っていたことを、いつの間にか同じようには感じなくなっていたら。

そのとき、自分の中で何が変わったのだろう。

【4】自分を保つために引いた線も、変わってしまうのか

以前は「これはダメだ」と思っていたことを、今は同じように感じなくなったとする。

そのとき、変わったのは何なのだろう。

行為に対する判断なのか、それとも感じ方が変わっただけなのか。

そもそも、その違いに自分で気づくことができるのだろうか。

以前は「ダメだ」と思っていたことが、そう思えなくなるとしたら

たとえば、ある人の行為を知って、「そんなの許せない」と感じたとする。

自分だったら決してそんなことはしない。
そのときは、そう思っている。

けれど、その後も似たような出来事を何度か見聞きするうちに、以前ほど抵抗を感じなくなったとしたらどうだろう。

最初は強く嫌悪していたのに、今はそこまで嫌な気持ちにならない。

あるいは、「そういうこともあるのかもしれない」と、行為に対する考え方まで変わっているかもしれない。

もちろん、これは仮の話だ。

ただ、こういう変化が起きたとき、自分ではどう感じるのだろうと考えてしまう。

新しい事情を知って、考え直したのかもしれない。
あるいは、いろいろな情報に触れるうちに、感じ方が変わったのかもしれない。

理由をある程度説明できる場合もあれば、いつから変わったのか、うまく説明できない場合もあるだろう。

そもそも、一度決めた倫理的な判断は、どのくらい変わるものなのだろう。

気になって調べてみると、同じ道徳的なジレンマについて、時間をおいて尋ねたときに評価が変わる例を確認した研究があった。

その一方で、道徳的な問題として強く捉えている態度ほど、比較的安定しているという研究もある。

判断が変わることもあれば、変わりにくいこともあるようだ。

ただ、調査で回答が変わったからといって、本人の価値観そのものが変わったとは限らない。
測定上の誤差も考えられるし、何が変化の原因だったのかも分からない。

研究を読んでも、最初の疑問にそのまま答えが出るわけではなかった。

判断や感じ方が変わったとき、その変化に本人がどこまで気づいているのか。

私が気になっているのは、そこなのだと思う。

境界線が消えるのか、位置が変わるのかは分からない

先ほどの例に戻ってみる。

以前ほど強い抵抗を感じなくなったとして、それだけで境界線が変わったと言えるのだろうか。

たとえば、以前なら許せなかった行為を、ある程度は許容できるようになった場合。

「してはいけないこと」という考えは残っていても、何をもとに判断するのかが変わったのかもしれない。

そうだとすれば、判断基準に何らかの変化があったとも考えられる。

でも、行為そのものを許せないという判断は、以前と変わっていない場合もある。

ただ、前ほど腹が立たなくなった。
嫌悪感が薄れただけで、今でもその行為は間違っていると思っている。

それなら、変わったのは判断ではなく、感情のほうだ。

あるいは、「これは絶対にしない」と考えていた理由そのものが変わった可能性もある。

同じように「以前とは違う」と感じていても、何が変わったのかによって、その意味は違ってくる。

そもそも、ここでいう境界線は、実際に心の中に引かれている線ではない。

価値観や判断基準について考えるために、私が使っている概念だ。

だから、境界線が消えたのか、位置が変わったのかも、簡単には言えない。

ただ、ここまで考えてくると、最初に思いついた仮説も、少し違って感じられる。

人は、自分が自分であり続けるために境界線を引いているのかもしれない。

でも、自分で引いたからといって、その線をずっと同じ位置に保っていられるとは限らない。

何かを経験し、いろいろなことを知るうちに、感じ方が変わることもある。
そして、判断そのものを見直す場合もあるだろう。

では、そうして境界線が変わることは、悪いことなのだろうか。

【5】境界線が変わることは、悪いことなのか

自分で引いた境界線も、変わることがある。

けれど、変わること自体が悪いとは限らない。

むしろ、考えを変えたほうがいい場合もあるのではないか。

新しいことを知って、考えを変える場合もある

たとえば、「一度交わした約束は、必ず守るべきだ」と考えている人がいるとする。

約束を破る人を見ると、無責任だと感じる。
自分はそんなことをしないと決めている。

でも、約束を破った人にも、何か事情があったとしたら。

仮に、こんな会話があったとする。

「約束を破るなんて、無責任だと思う」

「でも、その人は急に体調を崩した家族に付き添っていたらしいよ」

「そうだったんだ。それなら、事情を知らずに判断していたのかもしれない」

約束を破ったという事実は変わらない。

けれど、その理由を知ると、少し考え方が変わる。

約束を守ることは大切だ。
でも、体調を崩した家族を助けることも大切だと思う。

そうなると、「どんな事情があっても約束は守るべきだ」という考えを見直すこともあるだろう。

もちろん、今回は例外として認めただけで、判断基準そのものは変わっていないかもしれない。

ただ、新しい事情を知り、自分なりに考えたうえで判断している。

では、そのようなきっかけが、はっきりしない場合はどうだろう。

約束を破る人について、いろいろな話を見聞きしてきた人がいるとする。

ある日、こんな会話があったとしたら。

「前は、約束を破る人なんて許せないと言っていたよね」

「そうだったね。でも、今はそこまで強く思わないかもしれない」

「何か考えが変わるきっかけがあったの?」

「それが、自分でもよく分からないんだ」

最初の会話では、判断を見直した理由をある程度説明できる。

後の会話では、以前ほど抵抗を感じなくなった理由が分からない。
ただ、それだけで判断まで変わったとは限らない。

本人が自覚していない情報処理が関わっている可能性もあるが、無意識が原因だと決めることはできない。

意識して考え直すときにも、自覚していない情報処理は関わりうる。
二つは完全に分かれたものではないのだろう。

ただ、ここで気になるのは、その変化をどう捉えるかということだ。

新しい事情を知って、相手を理解できるようになることもある。
けれど、考えを改めたことで、かえって判断を誤ることもあるだろう。

自分で考えて変えたから正しいとも、理由が分からないから間違っているとも言えない。

境界線が変わったというだけで、その変化がよいのか悪いのかは決められない。

線を守ることと、自分を保つことは同じなのか

ここで、最初に考えたことへ戻ってみる。

人は、自分が自分であり続けるために、価値観に反するものとの間に線を引いているのではないか。

そう考えていた。

でも、先ほどの約束の話を思い返すと、少し引っかかる。

「約束は必ず守るべきだ」と考えていた人が、事情によっては守れないこともあると考えるようになったとする。

その人は、以前とは別の人間になってしまったのだろうか。

そうとも言い切れない。

約束を守ることを大切に思っているからこそ、ほかの大切なこととの関係を考え直したのかもしれない。

価値観を捨てたのではなく、その価値観を持ちながら、判断の仕方を変えたとも考えられる。

だとしたら、境界線が変わることと、自分が自分であり続けることは、必ずしも矛盾しない。

そもそも、自分が自分であり続けるとは、どういうことなのだろう。

昨日と同じ価値観を持ち、同じ判断を続けることなのか。

それとも、考え方が変わっても、その変化を含めて同じ自分だと感じられることなのか。

ここでまた、無意識のことが気になってくる。

自分で考え、納得して判断を変えたのであれば、その変化も自分で選んだものだと思えるかもしれない。

でも、理由もはっきり分からず、いつの間にか感じ方が変わっていた場合はどうだろう。

自分の意思で選んだとさえ言い切れない変化も、自分の一部として受け止められるのだろうか。

考えてみれば、頭の中で起きていることを、すべて自覚しているわけではない。

それでも、昨日までの自分と今の自分が、つながっているという感覚はある。

もちろん、変わった考えを何でもそのまま受け入れればよいとは思わない。
以前と違う判断をしていることに気づいたなら、その理由をもう一度考えることもできる。

ただ、自分を保つことを、一度決めたことを変えずに守り続けることだけで考えるのは、少し違う気がしてきた。

自分がどういう人間なのかを確かめるために、線を引くことはある。

でも、経験を重ねて考え方が変わっても、それまでの自分がなくなってしまうわけではない。

境界線を守ることが、自分を保つことにつながる場合はある。
けれど、境界線が変わったからといって、自分を保てなくなるとは限らない。

最初に思いついた仮説には、変わっていく自分をどう捉えるのか、ということが抜けていたのかもしれない。

【まとめ】自分を保とうとしながら、変わっていくということ

「自分ならそんなことはしない」。

そう思うとき、そこには行為の善悪を判断するだけでなく、「自分はこういう人間だ」と確かめる気持ちもあるのかもしれない。

それが、最初に考えたことだった。

自分の価値観に反するものとの間に線を引き、その線を守ることで、自分を保っているのではないか。

でも、ここまで考えてくると、少し違う気もしてきた。

新しいことを知って、自分で考え直すこともある。
以前ほど強い抵抗を感じなくなっているのに、いつからそうなったのか分からないこともある。

意識して判断を変えることと、理由を十分に自覚しないまま感じ方が変わることは違う。

後者には無意識的な情報処理が関わっている可能性もあるけれど、それが原因だと決めることはできない。

そもそも、意識して考えているときでさえ、頭の中で起きていることをすべて把握しているわけではない。

そう考えると、自分の意思で引いた線が、思っていたほど確かなものではないように感じる。

ただ、変わることが悪いわけでもない。

以前とは違う判断をするようになっても、それまで大切にしていたものを、すべて失ってしまうわけではないだろう。

かといって、変わった自分を何でもそのまま受け入れればいいとも思わない。

なぜ、その線を引いていたのか。
今はどう考えているのか。

改めて考えることもできる。

最初は、自分で引いた境界線を守ることが、自分であり続けることにつながるのだと思っていた。

でも、自分であり続けるというのは、同じ判断を守り続けることだけではないのかもしれない。

『ノルウェイの森』の言葉から考え始めた、「こちら側」と「あちら側」。

私たちは、その間にはっきりとした線を引いているつもりでいる。

けれど、その線を引いている自分自身も、少しずつ変わっている。

どこまでが自分の意思で、どこからが自覚していない働きによるものなのか。

その境目さえ、はっきり分かるわけではない。

結局、昔から考えていた「自分とは何なのか」という疑問に、また戻ってくる。

ただ、今は少しだけ、考え方が違っている。

自分を保つということは、変わらずにいることではなく、変わっていく自分も含めて考えることなのかもしれない。

参照・参考サイト

講談社『ノルウェイの森(上)』村上春樹 https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000203588

Project Gutenberg『Beyond Good and Evil』Friedrich Nietzsche https://www.gutenberg.org/files/4363/4363-h/4363-h.htm

Annual Review of Neuroscience「Neuroscientific Evidence for Processing Without Awareness」
https://doi.org/10.1146/annurev-neuro-110920-033151

Journal of Experimental Social Psychology「Mutual influence of implicit and explicit attitudes」
https://doi.org/10.1016/j.jesp.2009.04.006

Review of Philosophy and Psychology「How Stable are Moral Judgments?」 https://doi.org/10.1007/s13164-022-00649-7

Personality and Social Psychology Bulletin「The Stability of Moralized Attitudes Over Time」 https://doi.org/10.1177/0146167220935737

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