自分で考えるとはどういうことか

Jibun_01_MV 自分とはなにか

ニュースを見ていて、「そうなんだー」で終わることがある。

でも、ときどき「本当にそうなのかな」と引っかかる。

そういうときは、書かれている事実を確かめたり、結論までのつながりを追ったり、ほかの可能性を考えたりする。

そこまでやって出した答えなら、「自分で考えた」と言っていい気がする。

ただ、考えていると、少し変なことも起きる。

「これってAかもしれない」と、理由より先に答えのようなものが浮かぶことがある。直感のように。

なぜAなのかは、まだ分からない。

自分で順番にたどり着いたというより、先にAが出てきて、そのあとで「本当にそうなのか」を確かめている。

それでも最後には、「自分で考えた結果、Aだと思う」と言う。

ここが、少し引っかかった。

「自分で考える」の「自分」は、いったいどこにいるのだろう。

最初のアイデアを生み出したところにいるのか。

自分なりの答えを出したところにいるのか。

それとも、どこから来た材料であっても、それを確かめ、最後に判断しているところにいるのか。

「自分で考える」という、普段は何気なく使っている言葉が、急によく分からなくなった。

まずは、「考える」ときに自分は何をしているのか、そのあたりから考えてみたい。

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この記事の内容を、音声で聴きやすい形に再構成しています。 「自分で考える」とは何なのか、思考のどこに「自分」がいるのかを、移動中や作業中にも聴いていただけます。

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1.「考えた」と「そのまま受け入れた」は何が違うのか

普段、目や耳から入ってくることを、いちいち全部調べたりしているわけではない。

ニュースを見ても、興味がなければ「そうなんだ」で終わる。

でも、何かに引っかかると、その先を確かめたくなる。

同じように受け取っていても、そこで止まるときと、動き始めるときがある。

この違いは何なのだろう。

何があると、その先を確かめ始めるのか

自分の場合、きっかけとして多いのは違和感だ。

すでに知っていることと違えば、「自分が知っている内容と違うけれど、どちらが正しいのだろう」と気になる。

事実そのものを知らなくても、そこから出している結論に引っかかることもある。

「その事実だけで、そこまで言えるのかな」と思う。

自分は背景まで分からないと腹落ちしにくいところがあるので、事実から結論までが急に見えると気になることがある。

とはいえ、違和感があれば必ずその先へ進むわけでもない。

興味がなければ、「まあいいか」で終わる。

そこから「確認したい」「もう少し知りたい」「本当にそうなのか確かめたい」となったとき、初めて自分から動き始める。

何を確認するかを決める。

知っていることと照らしあわせる。

必要なら調べる。

ほかの可能性も見る。

自分の感覚では、このあたりから、ただ受け取るのとは違う感じになる。

違和感を覚えた時点から含めるのか、そのあと実際に確かめ始めたところからなのかは、普段そこまで細かく分けていない。

振り返れば、その一連の流れをまとめて「考えた」と言っている気もする。

ただ、少なくとも、何かが入ってきただけの状態とは違う。

知りたい、確かめたい、判断したいと思って、そのために自分から確かめにいっている。

どこまで進めば、「考えた」と言えるのか

最後には何か答えを出さないと、「考えた」とは言いにくいようにも見える。

でも、自分の感覚では、それも少し違う。

あることについて調べて、いくつかの可能性を比べたとする。

それでも、判断するには材料が足りないことがある。

「ここまでは分かるけれど、ここから先は分からない」となる。

結論らしい結論は出ていない。

それでも、何もしていなかったとは思わない。

今ある材料では決められないところまで確かめている。

最初には、何かしら答えを出そうという意思がある。

そのために確かめ、比べ、どこまで言えるかを見る。

その先で「分からない」にたどり着くこともある。

答えそのものより、そこへ向かう過程のほうが近い気がする。

正解したかどうかでもない。

きれいな結論まで出せたかどうかでもない。

何かしらの目的があり、そのために必要なものを扱っている。

少なくとも、自分が「考えた」と呼んでいるものには、その過程が含まれている。

答えが同じなら、「自分で」とは言えないのか

「自分で考えた」と言うと、どこか他人とは違う答えを出すことのようにも聞こえる。

でも、自分にはあまりそういう感覚がない。

誰かが先にAという結論を出していたとしても、自分でも確かめた結果Aになったなら、それは自分で出した答えと言っていい気がする。

答えが同じだっただけだ。

逆に、他人とは違う答えを出したからといって、それだけで「自分で」と言えるとも思えない。

誰かの意見をそのまま反転させただけなら、違うのは結論だけかもしれない。

答えの珍しさや結果だけでは、どこまで自分が関わったのかは分からない。

見るとしたら、その答えにたどり着くまでのほうなのだと思う。

だとすれば、その過程のどこに「自分で」があるのだろう。

2.考えるときには、何かしらの目的がある

自分の経験を振り返ると、何かに向き合う前には、たいてい欲求や目的がある。

知りたい。

確かめたい。

決めなくてはいけない。

ただ、こうした目的があることと、そこへ自分から入っていくことは、同じではなさそうだ。

目的があっても、まだ動き始めていないことがある

ニュースを見て違和感を持ったときなら、「本当にそうなのか確認したい」と思う。

分からないことがあれば知りたくなるし、判断に自信がなければ、もう少し確かめたくなる。

企画の仕事なら、「もっといい案を出したい」という欲求がある。

まずあるのは、こうした向かう先だと思う。

ただ、その目的そのものを、自分が意識して作ったとは限らない。

ニュースを見て、自然に「確認したい」と感じることもある。

仕事で「これについて考えて」と言われ、外から目的を与えられることもある。

それでも、そこから「ではやってみよう」となって実際に検討を始めれば、自分としては普通に「自分でやっている」と感じる。

ここで、目的と意思は少し分けて見たほうがよさそうだ。

「このことを知りたい」「答えを出す必要がある」というのが、向かう先だとする。

その目的に対して、「じゃあ確かめよう」と自分が動き始める。

自分が意思と呼んでいるのは、たぶんこちらのほうだ。

もちろん、実際にはそこまできれいに分かれているわけではない。

「知りたい」と思ったときには、もう調べ始めていることもある。

「考えなくちゃ」という言葉の中に、必要性と意思が一緒に入っていることもある。

それでも今回の「自分で考える」を見るなら、この二つは分けておいたほうがよさそうだ。

目的があるだけでは、まだそのことについて頭を動かしているとは限らないからだ。

たとえば「明日までにこの仕事を終わらせる」という目的があっても、そのことから離れて別のことをしている時間はある。

目的は残っている。

でも、その間ずっと答えを探しているわけではない。

「どうすれば終わるか」とそこへ向き直ったところで、初めて自分からその過程に入っていく。

自分がこれまで「能動的に考える」と呼んでいたのは、この部分なのかもしれない。

日本語の「思う」と「考える」の違いにも、少し似たところがある。

国立国語研究所の「ことば研究館」によると、「思う」には情緒的・一時的な思考、「考える」には論理的・継続的な思考というニュアンスがあり、「考える」のほうが自分の意志で開始や停止をコントロールしやすいと説明されている。

これは、「考える」の科学的な定義ではない。

それでも、「今から考えよう」とは言えるのに、「今から思おう」は少し不自然だという違いは、自分が感じている能動性と重なる。

今のところ、自分が普段「考える」と呼んでいるものには、何かしらの目的と、その目的に対して自分から入っていくことの両方が関わっていそうだ。

意識していない時間も、その途中に含まれている

一度そこへ入ったら、そのあいだずっと意識しているのだろうか。

たとえば、日々のルーティン作業をするときに「今日もいつものようにやろう」と決めたとする。

「いつもの作業を終える」という目的があり、その進め方も自分で選んでいる。

その時点では、そこに意思もある。

でも、その後の手順まで一つ一つ意識しているとは限らない。

慣れていれば、いちいち「次はこれをやろう」と思わなくても、そのまま手が動く。

目的が消えたわけではない。

ただ、その瞬間ごとに自分が判断をし続けているとも言いにくい。

途中でいつもと違うことが起きると、また意識が戻ってくる。

「これはどうしよう」

「このままでいいのか」

「別の方法に変えたほうがいいか」

必要になったところで、もう一度そこへ入っていく。

問題がなくなれば、また慣れた流れに戻る。

一つの作業の中には、自分で判断している時間と、あまり意識せずに手を動かしている時間が混ざっている。

それでも後から振り返れば、必要なところで判断や修正をしながら、一つの目的に向かって進んだ全体を「考えた」と呼んでいる気がする。

だとすると、「自分で考える」ために、最初から最後まで表層意識で追い続けている必要はなさそうだ。

ここは、最初に持っていた「考えるのは表層意識」という感覚から少しずれてくる。

※表層意識:自分でいま何をしているか・考えているかを理解できる意識

自分がやっていることに近い働きは、研究にもある

ここまで見てきたことを、自分の感覚だけで決めてしまっていいのかは少し気になった。

目的に向かって何かを選び、途中で確かめ、必要ならやり方を変える。

こうした動きに近いものとして、認知研究には「認知的コントロール」という概念がある。

2025年の『Annual Review of Psychology』のレビューでも、目標に応じて行動を選び、進み具合を見ながら必要に応じて調整する働きが扱われている。

自分がここまで書いてきたことと、そのまま同じではない。

研究が「自分で考える」を説明しているわけでも、目的と意思を自分と同じように分けているわけでもない。

それでも、目標に向かいながら必要なところで選び直したり、修正したりする働き自体は、特別な捉え方ではなさそうだ。

自分が普段やっていることも、ずっと意識し続けることより、必要なところでだけ意識をして、選び、確かめ、変えていくことに近いのかもしれない。

ただ、そのときに使っているものまで、自分が一から作っているわけではない。

外から入ってきたものや、いつの間にか自分の中にあるものを使っていても、それは「自分で」と言えるのだろうか。

3.思考の材料は、自分で生み出したものでなくてもいい

何かを考えるとき、使っているものまで全部自分で作っているわけではない。

誰かから聞いた話もある。

ニュースや本で知ったこともある。

過去の経験や記憶も入ってくる。

ときには、理由が分からないまま「Aかもしれない」と答えの候補だけが先に浮かぶこともある。

こうしたものを使っていても、「自分で考えた」と言えるのだろうか。

外から来たAも、内側から出てきたAも、まずは候補になる

たとえば、誰かから「答えはAだと思う」と言われたとする。

このAは、外から入ってきたものだ。

一方で、一人でいるときに、理由は分からないけれど「Aかもしれない」と浮かぶこともある。

出てきた場所は違う。

でも、そのあと自分がやることは似ている。

「本当にAなのか」

「その根拠は何なのか」

「Aではない可能性はないのか」

と確かめていく。

自分の場合、「Aかもしれない」と勘のようなものが出てきても、そのまま採用することはあまりない。

時間があれば、むしろAではない可能性を探す。

根拠と矛盾するなら、そちらを優先する。

このとき確かめているのは、「なぜAが頭に浮かんだのか」ではなく、「Aという答えを採用してよいのか」だ。

そう見ると、外から来たAも、自分の中から出てきたAも、検討する段階では一つの候補になる。

もちろん、まったく同じではない。

外から来たものなら、誰が言ったのか、どんな根拠があるのかをたどれることもある。

自分の中から出てきたものは、その出所自体がよく分からないこともある。

それでも、「これを採用するかどうか」というところでは、どちらも材料として扱っている。

他人から得たものを使ったからといって、それだけで自分の考えではなくなるわけではない。

逆に、自分の頭に浮かんだからといって、それだけで十分に考えたことになるわけでもない。

「思う」の中には、直感と判断が混ざっている

自分が「Aだと思う」と言うとき、その中身は一つではない。

たとえば、何かを見た瞬間に「たぶんAだ」と感じる。

なぜAなのかは、まだうまく説明できない。

根拠を順番に並べたわけでもなく、先にAという答えっぽいものだけが出てくる。

自分の感覚では、ここが直感や勘に近い。

そこからAを一つの候補として確かめていく。

根拠を見る。

Aではない可能性も探す。

途中で矛盾が見つかれば、最初に浮かんだAを捨てることもある。

反対に、確かめても大きな矛盾がなく、今ある材料ならAでよさそうだとなることもある。

そこで初めて、「自分はAだと思う」と言う。

同じ「Aだと思う」でも、最初と最後では位置が違う。

最初は、理由より先に出てきた候補だった。

最後は、その候補を確かめたあとに、自分の答えとして採用した判断になる。

自分の中では、直感から判断へそのまま移るというより、間に「確かめる」が入っている。

・直感としてAが浮かぶ。

・Aを候補として扱う。

・根拠や別の可能性を見る。

・そのうえで、Aを残すか捨てるかを決める。

もちろん、いつもこの順番がはっきり見えるわけではない。

直感をほとんどそのまま採用することもあるし、かなり確かめても最後まで「たぶんAだと思う」としか言えないこともある。

それでも、「浮かんだA」と「採用したA」は、自分の中では同じではない。

「私はこう思う」という言葉だけでは、そのAがまだ候補なのか、確かめたあとの判断なのかまでは分からない。

自分で考えたかどうかを見るなら、その間に何があったのかは別にしておいたほうがよさそうだ。

任せることも、自分で決めた結果なら残るものがある

「自分で考える」と言うと、何でも自分一人で判断しなければいけないようにも聞こえる。

でも、自分にはそこまでの感覚はない。

専門外のことなら、全部を自分で確かめるのは難しい。

そのときは、「この人は専門家だから、この部分は任せよう」と判断することがある。

中身そのものの細かい判断はしていない。

それでも、「この人を信用してよいか」「今回は任せてよいか」というところでは、自分なりに決めている。

一度信用した相手でも、いつもと違うことを言えば確かめ直すこともある。

違和感があれば、その信頼自体をもう一度見直す。

考え方を教わる場合も似ている。

「まずAを確認して、そのあとBを見るとよい」と教わったとしても、その手順を使いながら自分で確かめているなら、それは自分としては「考えている」と感じる。

材料だけでなく、方法まで外からもらうことはある。

それでも、その方法をどう使うか、出てきた答えをどこまで採用するかまで手放したわけではない。

ここまで来ると、「自分で考える」と「自分だけで考える」は、やはり違うように思う。

外から入ってきたものを使ってもいい。

誰かのやり方を借りてもいい。

一部を専門家に任せてもいい。

それだけで、自分の考えではなくなるわけではない。

ただ、自分の中から出てきたものについては、まだ一つ気になることが残る。

そもそも、それはどうやって出てきたのだろう。

4.では、思考のすべてを表層意識が動かしているのか

2章では、ひとつの目的に向かう途中に、意識して判断している時間と、あまり意識せずに進んでいる時間が混ざっていると考えました。

そこで「表層意識」と呼んでいたのは、自分でいま何をしているか、何を考えているかを追える範囲のことだ。

前の章で見た「Aかもしれない」にも、この範囲からは追えない部分がある。

Aが浮かんだことは分かる。

でも、そこへ至るまでに何が起きていたのかは分からない。

最初に持っていた「考えるのは表層意識」という感覚は、ここで少し怪しくなってくる。

「Aかもしれない」は、どこから出てくるのか

自分には、ときどき答えのようなものが先に出てくることがある。

順番にたどってAになったというより、気づいたら「Aかもしれない」がある。

曲を聞いた瞬間に「この曲いいな」と感じても、なぜいいと思ったのかを、その場では説明できないこともある。

こういうときの感覚は、「考えて出した」より「出てきた」に近い。

気になるのは、そのあとAをどう扱うかではない。

Aそのものが、どうやって出てきたのかだ。

以前に似たことを考えていて、それを忘れているだけかもしれない。

過去の経験や記憶が、何らかの形でつながっているのかもしれない。

自分では追えないところで、何かしらの処理が進んでいる可能性もある。

でも、自分の感覚だけでは、そこを区別できない。

だから、「突然浮かんだものは無意識が作った」とまでは言えない。

今の自分に分かるのは、Aへたどり着くまでの過程を表層意識から追えないことがある、というところまでだ。

見えないものを、全部「無意識」と呼んでいいのか

最初は、自分で追えないものを、そのまま「無意識」と考えていたところがあった。

表層意識で追えるものと、それ以外。

なんとなく、その二つに分けていた。

でも、ここを調べると、そこまで単純でもないようだ。

認知心理学では、「自動的」と呼ばれる処理でも、意識されないこと、制御されないこと、速いことなどが、必ず一緒に起きるわけではないとされている。

直感的な処理と分析的な処理についても、二つの独立した仕組みとしてきれいに分けられるかは議論がある。

そうなると、自分から追えるかどうかと、その処理が何なのかは別の話になる。

追えないからといって、それを一つの「無意識」としてまとめるのは強すぎる。

今回の「表層意識」は、何かを動かす仕組みの名前ではない。

2章から一貫して、自分でいま起きていることを自分で追える範囲を指すために使っている。

その範囲から外れたものが、そのまま「無意識」という一つの仕組みになるわけではない。

突然分かったことと、「無意識が答えを出した」ことは同じではない

では、答えが突然浮かぶという経験については、どこまで言えるのだろう。

心理学では、答えや見方が突然分かったように感じることは、「洞察」や「Aha体験」として研究されている。

ただ、「突然分かった」と感じることと、その前の過程がすべて無意識だったことは同じではない。

洞察的な問題解決でも、解決までの途中について意識的に報告できる部分が確認された研究がある。

だからといって、自分の「Aかもしれない」がどう作られているのかまで分かるわけではない。

ここでも、言える範囲は限られている。

Aが突然浮かんだからといって、「無意識が答えを作った」と決めることはできない。

自分の経験についても、Aがどこから出てきたのかは、まだ分からない。

ただ、思考の中には、自分では生成の過程を追えない部分がある。

そして、その正体を単純に「無意識」と置くこともできない。

2章では、ひと続きの過程を最初から最後まで表層意識で追い続ける必要はなさそうだと考えた。

ここではさらに、その過程で使う材料がどう生まれたのかまで、表層意識から追えている必要もなさそうだ。

だとすると、「自分で考える」の「自分」を、思考のすべてを生み出し、動かしている表層意識として置くのは難しそうだ。

5.「自分で考える」と「正しく考える」は別の話だった

ここまで考えてきて、ひとつ分けておいたほうがよさそうなことがある。

「自分で考えたか」と、「正しく考えられたか」は、同じではない。

自分で考えたかどうかは、そこに自分がどう関わったかの話だと思う。

一方で、正しく考えられたかどうかは、その考え方や結論がどれだけ妥当だったかの話になる。

自分は普段、前提を確かめたり、反証を探したりする。

でも、それは「自分で考える」ために必要だからというより、考え方の精度を上げるためにやっていることに近い。

この二つを一緒にすると、「自分で考える」の条件が必要以上に増えてしまう。

前提を確かめるのは、精度を上げるためだった

自分は何かに取り組むとき、最初に前提を確認することが多い。

企画でも問題解決でも、「そもそも何を決める話なのか」「条件は何なのか」を先に見る。

そこから樹形図のように分けて、いくつかの可能性を出す。

「Aっぽい」と感じる答えがあっても、Aを裏づけるものだけではなく、むしろAではない可能性を探す。

どうしても結論が合わなければ、途中ではなく最初の前提まで戻る。

今ではかなり普通にやっていることだけれど、最初からそうだったわけではない。

前提がずれていると、そのあとをどれだけ丁寧に進めても全体がずれていく。

何かを提出してダメ出しを受け、やり直す。

そういうことを何度も繰り返すうちに、最初の部分まで確かめるようになった。

自分に都合のいい結論ほど反証を探すのも、失敗したくないから身についたやり方だと思う。

そう考えると、これは「自分で考える」ための条件というより、答えの精度を上げるために覚えた方法に近い。

樹形図も、前提確認も、反証探しも、自分にとっては思考の質を上げるための技術なのだと思う。

間違った結論でも、その過程はある

もう少し極端な場合を考える。

最初からAという結論にしたい人がいたとする。

その人はAを正当化するために、都合のいい材料だけを集める。

反対するものは避ける。

かなり偏ったやり方だと思う。

でも、「Aという結論にしたい」という向かう先があり、そのために材料を選び、組み立てている。

これを「何も考えていない」と言うのも少し違う。

目的が違う。

やり方の質も違う。

それでも、その人なりに材料を扱っている過程はある。

ここで、自分の中では二つが分かれてくる。

「自分で考えたか」と、「その考え方が妥当だったか」は、同じではない。

他人と違う答えを出す必要もない。

正しい結論にたどり着く必要もない。

公平であることや、精度の高い方法を使うことも、それ自体は別の話になる。

間違った答えにたどり着くこともあるし、偏った見方をしたまま進むこともある。

そのことと、そこに自分が関わっていたかどうかは、別だ。

「自分で」は、どこから始まったかより、どう関わったかにある

ここまで外していくと、逆に何が残るのかが少し分かりやすくなる。

他人と違う答えである必要はない。

材料を自分で生み出している必要もない。

考え方を自分で一から作っている必要もない。

思考の途中をすべて表層意識で追えている必要もない。

正しい答えへたどり着くことも条件ではない。

それでも、「自分で考えた」と感じる場面は残る。

2章で分けた、目的と意思がここでも残っている。

何かを知りたい、確かめたい、決めたいという向かう先がある。

そこに対して自分から入り、出てきた材料をそのまま受け取らず、どこまで採用するかを決めていく。

途中の全部を自分で生み出しているわけではない。

それでも、その過程に自分が関わっている。

自分の中で、「自分で考える」の条件は三つに絞られてきた。

一つ目は、何かを知りたい、決めたい、確かめたいという目的があること。

二つ目は、その目的に対して、自分の意思でその過程に入ること。

三つ目は、入ってきた材料をそのまま受け取るのではなく、自分なりに扱い、どこまで採用するかを判断すること。

逆に、材料の出所や答えの独自性、方法のオリジナルさ、表層意識ですべてを追えているかどうか、結論の正しさは、条件から外れていく。

そうなると、「自分で」の意味は、思考の出発点よりも、その途中でどう関わっているかに近い。

「自分がこの考えをゼロから生み出した」というより、「出てきたものを、自分の目的と意思のもとで扱い、自分なりの判断まで進めた」というほうが、自分の感覚には合っている。

もちろん、これは「自分で考える」の心理学上の定義ではない。

ここまで自分の経験と研究を照らしながら見てきた結果として、今のところ一番しっくりくる置き方だ。

結論|「自分で考える」の「自分」は、思考の出発点なのか

ここまで考えてきて、自分の中では「考える」と「自分で」を分けて見たほうが分かりやすくなった。

まず、「考える」は一つの過程だと思う。

何かを知りたい、確かめたい、決めたいという欲求がある。

そこから目的ができ、その目的に向かって材料を集めたり、比べたり、確かめたりする。

その先で、自分なりの答えを出す。

答えは、「Aが正しい」のような結論とは限らない。

今ある材料では「分からない」と判断することもある。

自分が「考える」と呼んでいたのは、こうした欲求から答えまでの流れなのだと思う。

一方で、「自分で」は、その過程の始まりそのものを指しているわけではなさそうだ。

最初の欲求は、自然に生まれることもある。

仕事のように、外から必要性を与えられることもある。

だから、その欲求がどこから来たのかだけで、「自分で考えたか」を決めることはできない。

自分にとって「自分で」がはっきり出てくるのは、その欲求から目的ができ、そこに対して自分から入っていくところからだ。

入ってきた材料をそのまま受け取らず、確かめたり、選んだりしながら、自分なりの答えまで進める。

材料を自分で生み出したかどうかは関係ない。

最初の答えがどこから浮かんだのかも、すべて分かっている必要はない。

他人と違う結論や、正しい結論を出すことも条件ではない。

そう考えると、「考える」は欲求から答えまでの過程。

「自分で」は、その過程に自分の意思で入り、材料を扱い、判断していくこと。

今の自分には、この分け方がいちばんしっくりくる。

参照・参考サイト

国立国語研究所 ことば研究館「『思う』と『考える』の意味はどういうふうに違うのですか」
https://kotoba.ninjal.ac.jp/qa/yokuaru/qa-56/

Annual Review of Psychology「Cognitive Control」
https://www.annualreviews.org/content/journals/10.1146/annurev-psych-022024-103901

Annual Review of Psychology「Automaticity: Componential, Causal, and Mechanistic Explanations」
https://www.annualreviews.org/content/journals/10.1146/annurev-psych-122414-033550

Perspectives on Psychological Science「On Dual- and Single-Process Models of Thinking」
https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/1745691620964172

Annual Review of Psychology「Dual-Processing Accounts of Reasoning, Judgment, and Social Cognition」
https://www.annualreviews.org/content/journals/10.1146/annurev.psych.59.103006.093629

Consciousness and Cognition「The Aha! moment: Is insight a different form of problem solving?」
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1053810020305225

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