病気などをきっかけに、自分の残り時間を意識するようになる人がいる。
あと何年と決まっているわけではない。
すぐに人生が終わるわけでもない。
それでも、「まだ何十年もある」とは、前ほど思えなくなる。
そんな時間のことを考えていた。
「余命」と呼ぶには、少し違う。
「余生」という言葉も、自分にはしっくりこなかった。
先がないわけではない。
でも、先が長いとも限らない。
この曖昧な時間をどう捉えればいいのだろう、と考えていたとき、サッカーのアディショナルタイムが浮かんだ。
僕はサッカーをやっていたので、あの時間には馴染みがある。
終了は近い。
残り時間も多くない。
それでも、笛が鳴るまでは試合は続いている。
まだプレーできる。
この感覚を人生の残り時間に重ねると、少し違った見え方ができる気がした。
だからといって、「限られた時間を有意義に使って」と言いたいわけではない。
何かを成し遂げるべきだとも思わない。
ただ、本当はまだやってみたいことがあるのに、「もう今さら」と自分で終わらせてしまうのは、少しもったいない気がする。
そんな時間を、自分は「アディショナルライフ」と呼んで考えてみたい。
1.この時間を「余命」「余生」「老後」と呼ぶと、少し違う
こういう時間を表す言葉は、すでにいくつかある。
余命、余生、老後。
どれも近いようで、自分が考えている時間に置いてみると、少しずつ違って聞こえた。
先がないわけではない。でも、長いとも思えない
病気などをきっかけに、これまで遠くにあった人生の終わりを、少し近くに感じるようになることがある。
あと何年と決まっているわけではない。
思っているよりずっと長く生きるかもしれない。
だから、「もう先がない」という話ではない。
ただ、「この先も何十年と続いていく」と無条件には思えなくなる。
僕が考えていたのは、そのあたりにある曖昧な時間だった。
人生に終わりがあることは、誰でも知っている。
でも、知識として知っていることと、自分の残り時間を少し意識することは、たぶん同じではない。
まだ先はある。
でも、その長さはよく分からない。
そういう時間に、しっくりくる言葉があるのだろうかと思った。
既存の言葉では、この感覚をうまく置けなかった
「余命」と聞くと、僕にはどうしても「あとどれくらいなのか」という残り時間の長さが強く感じられる。
今回考えたいのは、その数字ではなかった。
「余生」も少し違う。
僕には、人生の主要なところをある程度終えて、そのあとに残った時間という響きがある。
まだ仕事もできる。
何かを始めることもできる。
そんな状態にある人へ「余生」という言葉を置くと、少し早く人生を閉じてしまうように聞こえる。
「老後」は、さらに別の言葉だと思う。
こちらは残された時間そのものより、年齢や人生の段階を表す言葉に近い。
今回考えている時間は、年齢だけでは決まらない。
若くても病気などで先を意識することはあるし、年を重ねても、その先を長く感じている人はいる。
余命、余生、老後。
どれも重なるところはある。
それでも、自分が考えている時間をそのまま置くには、少し違う。
それで、別の呼び方が欲しくなった。
2.サッカーのアディショナルタイムには、まだプレーできる時間がある
「アディショナルライフ」という言葉が浮かんだのは、やはりサッカーをやっていたからだと思う。
僕にとってアディショナルタイムは、単に試合の最後に足される時間ではない。
あの時間には、独特の感覚がある。
終了が近くても、笛が鳴るまでは試合は続いている
アディショナルタイムに入ると、試合の終わりが近いことは分かっている。
残された時間も多くない。
でも、まだ終わってはいない。
主審が笛を吹くまでは、ボールを追える。
前へ運ぶこともできる。
シュートを打つことだってできる。
僕には、「残り時間が少ない」ことよりも、「まだプレーできる」ことのほうが強く残っている。
こういうことを考えていると、村上春樹の『羊をめぐる冒険』に出てくる言葉を思い出す。
「歌は終わった。しかしメロディーはまだ鳴り響いている」
終わりを意識したからといって、すべてがその瞬間に消えてしまうわけではない。
僕には、この言葉もどこか同じ方向を向いているように思える。
人生の残り時間について考えたときも、引っかかったのはそこだった。
終わりが以前より近く感じられることと、もう終わったことは同じではない。
まだ笛は鳴っていない。
僕が「アディショナル」という言葉を使いたくなったのは、たぶんこの感覚からだ。
時間稼ぎのパス回しだけで終えてしまうのか
サッカーでは、前へ出ず、後ろでパスを回しながら時間を使うことがある。
この光景も、残りの人生を考えていたときに頭に浮かんだ。
毎日は普通に過ぎていく。
何かを始めるわけでもなく、ただ時間だけが進んでいく。
「もう自分には攻める理由がない」
そんなふうに思いながら過ごす時間は、僕には少し、時間稼ぎのパス回しに似て見えた。
もちろん、静かに暮らすことが悪いわけではない。
何かをし続けなければならないとも思わない。
ただ、本当はまだやってみたいことがあるのに、「もう今さら」と、その気持ちまで終わらせてしまうのは別の話だと思う。
まだプレーしたいのなら、時間稼ぎだけを選ばなくてもいい。
終わりが近いことは変えられない。
それでも、笛が鳴るまでに何をするかは、まだ全部決まっているわけではない。
3.「いつか」が使えなくなると、諦めていたことが見えてくる
残り時間を意識するようになると、「あとで」という言葉の感じも変わるのだと思う。
先が長いと思っているあいだは、未来へ置いておけるものがある。
でも、その未来を前ほど当たり前には思えなくなる。
先があると思えば、「また今度」で済ませられる
やってみたいことがあっても、今日やる必要はない。
仕事が落ち着いてからでいいや。
子供が成人してからでいいや。
時間ができてからでいいや。
「いつかやる」と思っていれば、まだ諦めた感じもしない。
やめたわけではなく、未来のどこかに置いているだけだからだ。
先が長いと思っているうちは、それでもいい。
来年でもいい。
その次の年でもいい。
まだ時間はあると思える。
けれど、残り時間が以前より近く感じられるようになると、その「また今度」は少し頼りなくなる。
来年できるかもしれない。
数年後でもできるかもしれない。
ただ、本当にその未来まで置いておけるのかは分からない。
誰にとっても未来の長さが分からないこと自体は、昔から変わらない。
それでも、自分の残り時間を意識するようになった人にとって、「いつか」は以前と同じ言葉ではなくなるのだと思う。
残り時間が見えると、「今さら」の意味が変わる
もう一つ気になったのが、「今さら」という言葉だった。
本当はやってみたかった。
でも、今から始めても遅い気がする。
周りに迷惑をかけるかもしれない。
そこまでしてやることでもない。
そうやって、やらないままにしてきたことはあると思う。
先が長いと思えるなら、それでもまだいい。
また別の機会があるかもしれないし、似たことをする時間も残っている。
でも、残り時間が見えてくると、「今さら」の意味が少し変わる。
今さらやるのか。
それとも、このままやらずに終わるのか。
そう並べてみると、前とは少し違って見える。
失敗するかもしれない。
思っていたほど楽しくないかもしれない。
周りに少し迷惑をかけるかもしれない。
それでも、「やってみたかった」という気持ちまで消えたわけではない。
残り時間が見えてきたからといって、急いで何かをしなければならないわけではない。
ただ、「いつか」や「今さら」で閉じていたものを、もう一度そのまま見直すことはできる。
アディショナルライフについて考えていると、僕にはこの違いがけっこう大きく思える。
4.何を残すかより、自分がやってみたかったことをやる
アディショナルライフについて考え始めたころ、最初に浮かんだのは「この世に何を残すか」だった。
でも、そこを中心にすると、少し違う気がしてきた。
最初は「この世に何を残すか」だと思っていた
限られた時間の中で、何を残せるのか。
文章でもいい。
仕事でもいい。
誰かに伝えたことでもいい。
自分がいなくなったあとにも何かが残るなら、それには意味があるように思える。
ただ、「残す」を中心に置くと、だんだん話が窮屈になる。
何かを作る。
何かを成し遂げる。
誰かに影響を与える。
そういう結果が必要になると、残された時間まで成果で測ることになる。
僕が考えたかったのは、そこではなかった。
何かが残ることはあると思う。
でも、それは目的でなくてもいい。
自分がやりたいことをやった結果として、たまたま何かが残ることもある。
何も形に残らないこともある。
それでも、その時間を自分で選んで使えたなら、それでいいのではないかと思うようになった。
理由は「やってみたいから」で十分なのかもしれない
そこまで考えると、理由はもっと単純でいい気がした。
「やってみたいから、やる」
たぶん、それくらいでいい。
誰かの役に立たなくてもいい。
何かを残せなくてもいい。
成功する見込みがあるから始める、という話でもない。
「いつか」や「今さら」の中に、それでもまだ残っている「やってみたい」がある。
その気持ちが残っているなら、自分のために使う時間があってもいい。
今は我慢する。
今は周りを優先する。
自分のことは、そのうちやる。
そうやって未来へ回してきたものもあると思う。
でも、その「そのうち」がどこまであるのか分からなくなったとき、同じように後回しにし続ける必要があるのかは、少し考えたくなる。
残り時間が見えてきたからといって、立派なことをする必要はない。
本当はやってみたかったことを、自分のためにやってみる。
アディショナルライフについて考えていくと、僕にはそのくらいの言い方がいちばんしっくりくる。
5.一つ「できた」があると、「じゃあ次も」と思えるかもしれない
やってみたいことを一つ、実際にやってみる。
そのあとに何が残るのかを考えると、成果とは少し違うものがあるように思う。
諦めていたことが「できた」という経験
ここでいう「できた」は、成功したという意味ではない。
評価されたとか、何かを成し遂げたということでもない。
ずっとやってみたかった。
でも、もう今さらだと思っていた。
それを実際にやってみた。
大事なのは、その「やれた」という感覚のほうなのだと思う。
思っていたものとは違うかもしれない。
うまくいかないこともある。
それでも、一度は諦めていたものに、もう一度手を伸ばせた。
その経験自体は残る。
「じゃあ次も」が、少し先を見る理由になる
一つできたからといって、そのあとも何かがうまくいくとは限らない。
ただ、
「じゃあ、次も何かやってみようかな」
と思えることはあるのではないかと思う。
これは心理学的な効果として言っているわけではない。
ただ、「できた」が一つあることで、その先にもう一つ何かを置けることはあるように思う。
残り時間を意識していると、日々がただ減っていくように感じることもある。
そこに、
「次はこれをやってみたい」
が一つ入る。
来月やってみたいことがある。
今度行ってみたい場所がある。
前に諦めたことを、もう一度試してみたい。
大きな目標ではない。
でも、「次」がある。
ここでいう希望も、たぶんそれくらいのものだと思う。
強く前向きになることでも、人生の意味を見つけ直すことでもない。
少し先に、やってみたいことがある。
それだけでも、時間の見え方は少し変わるのかもしれない。
それでも、何かをしなければならないわけではない
ただ、この話を「残り時間が少ないなら、何かをしなければならない」という話にはしたくない。
体調によって、動けない日はある。
何もしたくない日もある。
静かに過ごしたい時間もある。
それを無駄だとは思わない。
考えたいのは、本当はまだやってみたいことが残っているのに、
「もう今さら」
「どうせ先は長くない」
「やったところで何になるんだ」
と、その気持ちまで先に終わらせてしまうことだ。
そんなときに必要なのは、「やらなきゃ」ではないと思う。
「ちょっとやってみてもいいか」
そのくらいでいい。
そして、一つやれたあとに、
「じゃあ次も」
と少し思えたなら、それで十分なのだと思う。
せっかく残った時間があるんだから
アディショナルライフについて考え始めたとき、最初に浮かんだのは「残された時間で何を残すか」だった。
でも、ここまで考えてみると、少し違う。
何かを残さなくてもいい。
何かを成し遂げなくてもいい。
残り時間が見えてきたからといって、その時間まで立派に使う必要はない。
自分にとってのアディショナルライフは、残り時間が以前より見えてきたあとも、やってみたかったことまで先に諦めず、やれることをやれるだけやってみる時間だ。
サッカーでいえば、終了は近い。
でも、まだ笛は鳴っていない。
そのあいだに何をするかは、まだ全部決まっているわけではない。
本当はやってみたかったことがある。
でも、「もう今さら」と思って閉じていた。
そんなものが一つあるなら、もう一度開いてみてもいいのだと思う。
大げさに人生を変える必要はない。
「そういえば、あれをやってみたかったな」
と思い出して、
「まあ、ちょっとやってみるか」
となるくらいでいい。
それが一つできたら、次にやってみたいことが出てくるかもしれない。
何も出てこなくても、それはそれでいい。
人生の残り時間は、誰にも正確には分からない。
だからといって、急いで生きる必要はない。
ただ、やりたいことまで自分で先に終わらせなくてもいい。
せっかく残った時間があるんだから。
若くして旅立っていった友人たちに捧ぐ。
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この記事の内容を、音声で聴きやすい形に再構成しています。 人生の「本編」が終わったように感じたあとを、「アディショナルライフ」と捉える考え方について、移動中や作業中にも聴いていただけます。
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